言及状況

外部データベース (DOI)

レファレンス協同データベース (1 libraries, 1 posts)

生徒からの依頼。神奈川県及び相模原市の地名の変遷について調べたい。地図もあると良い。

Twitter (17 users, 50 posts, 30 favorites)

『新編相模国風土記稿』には、石雲寺の石五重塔は「御所の塔と唱ふ、来由詳ならず、手を触るれば祟ありと云、貴人の墳墓などにや」とあり、大友皇子の名は記されていないので、皇子と結び付けられたのはそんなに古くないのかもしれません。 https://t.co/fzYvBke2KG https://t.co/XoKTfSoMHI
まずは鶴巻温泉駅前のこちら。 この辺りは旧落幡村でした。 鎌倉の御家人であった善波太郎が飛んできた旗曼荼羅を射落とした先が地名の由来ともいわれる。 鶴巻は「水流」からくるとも言われている。 国立国会図書館デジタルコレクション「大日本地誌大系. 第38巻」 https://t.co/uIPDUNYc2Z https://t.co/iQfaDI6kvO
『新編相模国風土記稿』の石尊社辺図 大山の山頂には、石尊社(本社)・小天狗社(前社)・大天狗社(奥社)の他、徳一社(祭神は大山祇尊)と風雨神社が鎮座していました。 https://t.co/3Jf39N0xhN https://t.co/xkZ5EofJz0
大山阿夫利神社本社(石尊大権現) 祭神は大山祇大神。 『新編相模国風土記稿』には「石尊社 当山の本宮にして山頂にあり。【延喜式神名帳】に載せし、阿部利神社是なり。祭神鳥石楠船尊。神躰秘して開扉せず(縁起に載せし往昔彩光を発せし像是なりと云)」とあります。 https://t.co/KD36VI3laW https://t.co/RoXCm5c8ww
二重瀧 『新編相模国風土記稿』には「瀧は堂の西に在、二段に落(上段高三丈六尺、下段四丈四尺幅六尺)、良辯登山の時、此瀧に瀧神出現の事、縁起に見ゆ」とあります。 https://t.co/KD36VIlup4 https://t.co/HWkpYwWwzO
大山阿夫利神社の摂社・二重社 祭神は高龗神。 『新編相模国風土記稿』には「二重堂 不動堂の北五六町を隔て、二重瀧の傍にあり、故にかく唱ふ、本尊は倶利伽羅明王なり、元禄宝永の二度造営を加へらる」とあります。 https://t.co/KD36VIlup4 https://t.co/B4iTFoBctx
大山阿夫利神社の摂社・浅間社 祭神は木花咲耶姫命・磐長姫命。 『新編相模国風土記稿』には不動堂(雨降山大山寺)の条に「浅間社 蔵王権現、毘沙門を相殿とす」とあり、挿図では不動堂の背後に鎮座しています。 https://t.co/4UHH2oOAdJ https://t.co/yBRsBdtIbz
大山寺 『新編相模国風土記稿』には「不動堂 雨降山大山寺と号す、本尊銅像(長三尺七寸、中興開山願行作)なり、二童子を置、(中略)天平勝宝七年僧良辯山頂に攀て不動を拝し、霊告を得て、不動の像を彫刻し、且堂舎僧坊等を造立す」とあります。 https://t.co/4UHH2p6JrR https://t.co/5mKpU58rZI
来迎院 『新編相模国風土記稿』には「来迎院 女坂の右にあり。密空山大山寺と号す。古義真言宗(八大坊末)、開山義範、寛治二年十月五日卒。中興弘誉、寛永九年正月三日卒。本尊弥陀。当寺は別当八大坊、及山上寺院の菩提寺なり」とあります。 https://t.co/phHGp04SWg https://t.co/WOgPBcxD9M
女坂と男坂 大山阿夫利神社下社への表参道で、ケーブルカーを使わない場合はどちらかの道を登ります。 『新編相模国風土記稿』には「山麓より坂本村の地二十二町を登り、前不動堂に至る。此所より左右に登る山路二條あり、右を男坂と云、左を女坂と呼ぶ」とあります。 https://t.co/rCEZtLHubn https://t.co/fqOI0mGymo
元瀧の傍の祠には高龗神と祓戸四柱神が祀られています。 『新編相模国風土記稿』に「飛瀧権現社 師職武栄太夫持」とありますが、この祠が飛瀧権現社に相当するのだろうか? https://t.co/rCEZtLHubn https://t.co/k4PWj4p8om
元瀧 『新編相模国風土記稿』には「本瀧、坂本町にあり(高一丈三尺余、幅一丈二尺)、瀧上に不動を置、瀧守武栄太夫」とあります。 https://t.co/0oHkLLyCDD https://t.co/HewoP1jpWe
開山堂(良辯堂) 『新編相模国風土記稿』には「良辨堂 良辨小児の像(猿のいだきし像にて自作と云、其の図上に載す)及四十二歳の像(自作、長二寸五分)を安置す。藤之坊持」とあります。 https://t.co/rCEZtLHubn https://t.co/uYIsAMgZrV
良辯瀧 『新編相模国風土記稿』には「良辨瀧、開山町良辨堂の辺にあり(高三丈二尺、幅二尺余)、行家二宇を建、瀧守藤之坊」とあります。 https://t.co/0oHkLLyCDD https://t.co/4cXC9Qw5E6
愛宕社・松尾社 『新編相模国風土記稿』には「愛宕社 享保元年の勧請なり。例祭七月廿四日。師職願成坊持。末社、松尾」とあります。 https://t.co/0oHkLLQLRL https://t.co/JDuqu2vFqT
愛宕瀧 『新編相模国風土記稿』には「愛宕瀧、福永町愛宕社の傍にあり(高二丈二尺余、幅一尺五寸)、瀧の左右に不動及倶利迦羅不動を安ず、瀧守願成坊」とあります。 https://t.co/0oHkLLyCDD https://t.co/xGnDfDcPu6
伊勢原大神宮の外宮 祭神は豊受姫大神。 『新編相模国風土記稿』には「外宮神躰木像(長四寸一分、背後の銘上に同)」とあります。 https://t.co/DT3dV78kru https://t.co/hSbhsrZpmU
伊勢原大神宮の内宮 祭神は天照大御神。 『新編相模国風土記稿』には「内宮の神躰銅像(長二寸、背に運慶十九代、大仏師田中刑部正徳四年午五月吉日と彫れり)」とあります。 https://t.co/DT3dV7qtFC https://t.co/SX7SqdFJZ0
伊勢原大神宮 『新編相模国風土記稿』には「神明社 村の鎮守なり、内外の両社並び建り、拝殿・神楽殿・供所等あり、(中略)当村開墾の頃勧請せし所にて、伊勢の神廟に擬し、二十一年目毎に社頭修理を加へ、遷宮の式あり、例祭六月十五・十六の両日なり、村持」とあります。 https://t.co/DT3dV78kru https://t.co/xeQDBPmPPF
伊勢原火伏不動尊 『新編相模国風土記稿』には「大覚院 知水山と号す。当山修験(江戸青山鳳閣寺配下)。開山聖真、慶安四年九月卒。本尊不動」とあります。 https://t.co/DT3dV78kru https://t.co/iRONgI5dOG
『新編相模国風土記原稿』には「【神名帳】に載る所当国の大社にして今も一宮と号す、社伝に祭神は応神天皇なり……」と記されています。ただ、応神天皇説も東国に八幡信仰が広まった後の説であり、本来の御祭神ではないと思われます。 https://t.co/YebbjzsBn5
『新編相模国風土記原稿』には「村の鎮守にて式内の社なり(【神名帳】高座郡小社五座之一)、今或は神明宮とも云、相伝ふ祭神は雄略天皇の皇后なりと云、本地は三尊弥陀」と記されています。 若日下部命を祀るのは、この所伝に基づくものでしょう。 https://t.co/Mz28hxx05Q
柳田も「結局殆と其端緒をだに得ず」と書いているように、この天白(天縛)神に関しては、未だに定説は無いようです。 なお、『新編相模国風土記稿』によると、天縛皇神社の前身である天縛明神社の祭神は帝釈天、本地仏は十一面観音でした。 https://t.co/MySZpYkvD9
『新編相模国風土記稿』巻56の日蓮宗妙伝寺(厚木市上依知)の条には「無量光寺開祖一遍、同村遊化の時日蓮配流の由を聞、当所観音堂に来て日蓮に謁見す、是を因として当寺と無量光寺は世々の住持今に音信を通ずといへり」という記述が有ります。 https://t.co/nmxivQa23G https://t.co/JR0oyCgEak
弘法山を下って吾妻山へ。此所には吾妻神社跡の石碑が有ります。『風土記稿』の落幡村の条に「吾妻権現社 万福寺持」とあり、落幡神社(主祭神:大己貴命)に相殿で祀られている吾妻社(配祀神:橘姫命)がこの神社かと思われます。 https://t.co/egWG3m8WM6 https://t.co/0Q0ezljlsF
昨日は秦野市の弘法山に花見に行って来ました。 『新編相模国風土記稿』の南矢名村の項には「弘法山 登十七八町、古弘法此山上にて、護摩修行せしより名づく」とあります。 https://t.co/mtFXnL7eJp https://t.co/rJJRS6Zkd6
昨日は神奈川県愛甲郡愛川町の八菅山に行って来ました。 標高225メートルの低山ですが、昔は京都聖護院直末で、本山派修験道の関東における重要拠点の一つ。この八菅山を拠点として相模大山一帯を回峰する独自の峰入りが行われていたそうです。 https://t.co/KURg4vBEbb https://t.co/9O5KduXA4A
『新編相模国風土記稿』の七沢村https://t.co/zzxHazJl12の浅間社の項に 「又社傍より勢至の木像を得たり、其頃木食空誉弾阿、此辺山中に(字一ノ沢と云所なり)在て専ら浄業を修し、高徳の聞えあり、貞享四年当社の霊夢を蒙て当山に移り、禅法寺(別当なり)に住し、 https://t.co/IDQWNvpSHR
また、『新編相模国風土記稿』の閑香明神社(小野神社)の条https://t.co/1OuszGlL2rには、「村の鎮守なり、 延喜式に載し小野神社(当国十三座の一)にて祭神下春命と云、神躰木像、本地薬師(長一尺七分、行基作)を安じ、阿羅波婆枳春日の二座を相殿とす」とあります。 https://t.co/RLKlLxWgIY
相模大山から日向薬師に向かう途中で見つけた「(伝)大友皇子之陵」 『新編相模国風土記稿』https://t.co/8MpcupUIJTの石雲寺の項には「御所の塔と唱ふ(高五尺八寸)、来由詳ならず、手を触るれば祟ありと云、貴人の墳墓などにや」と記されている(大友皇子の名は無い)。 https://t.co/nXFTFeoKLE
『新編相模国風土記稿』の大山の項 https://t.co/Kcahet5ju6 によると、大山寺不動堂(現在の大山阿夫利神社下社の場所)の二王門内には八大社があり、八大金剛童子を祀っていました(八大社は現存しません)。 これが大峯八大金剛童子なら話は簡単ですが……

Wikipedia (72 pages, 81 posts, 4 contributors)

編集者: タビックスJapan
2015-08-18 23:37:45 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: タビックスJapan
2021-09-26 18:58:45 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: タビックスJapan
2021-09-12 13:07:19 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: タビックスJapan
2021-09-09 13:34:42 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。

収集済み URL リスト