14 0 0 0 OA 日本民俗学

著者
中山太郎 著
出版者
大岡山書店
巻号頁・発行日
vol.〔第1-4〕 隨筆篇, 1931

言及状況

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う。 新書椿井文書に写真が掲載された百済王神社縁起書は民俗学者が神職へインタビューしたところ 木津の当時より作ってくださるので有名な職人さんの阿部さんに作ってもらったとの事。 https://t.co/OZZ3eGE157 百済王神社は2回の禁野火薬庫大爆発で縁起書を焼失したのかもしれない。
中山太郎の記録によれば三松家が提供した王仁木像を 学者が王辰爾とした事でごちゃごちゃになったようでhttps://t.co/JKcbsC4OCq 。 王仁木像(日本宋学史,天囚西村時彦,1909) https://t.co/H5XBMeuxPE 三松俊季から話を聞いた三宅源治郎が住んでいた津田村が、 伝王仁墓の古記録があ 椿井文書メモ
1918年三松氏が三松家百済王氏末裔の系図出版 https://t.co/Mo4maFEEUJ 。 祖先の宗廟になる百済王神社の縁起は木津の阿部氏に作ってもらったと民俗学者の中山太郎に語っている https://t.co/IswDvtcMh0 。 椿井文書の別名は木津文書。偽作か又は禁野火薬庫爆発で新調したと思われる。で、 三松家は
宇治市史,5巻,354頁に「「……木津の住今井良久に墳墓の偽作を著書せしめ……」」(P.380,由緒・偽文書と地域社会,馬部隆弘,2019)とあるから 明治時代作ったとも読める。 新書・椿井文書P.44百済王神社の縁起書も木津の阿部氏に作ってもらってる https://t.co/BavZILLVa1 。 椿井文書記録 https://t.co/diSDDIfJ04
@kyouansanjin 椿井政隆は国学者じゃないし、 枚方市にあると言われている椿井文書は三ノ宮神社古文書類が一番確率が高いけど確証はなく、 百済王神社の縁起は木津の阿部さんに作ってもらったものと記録に残ってるし、伝王仁墓は https://t.co/IswDvtcMh0
新書「椿井文書」P.44に写真が掲載されている『百済王霊祠廟由緒』は明朝体だけど 椿井村の椿井政隆著ではなくその対岸の 木津の系図業者の阿部さん作https://t.co/IswDvttPj0 。 中村直勝が記録した椿井文書は、明治時代木津の今井家・椿井家が販売したものだったから、もしかしたら別名なのかも? https://t.co/PwaNq06w5A
もし「百済王霊祠廟由緒」と筆跡が同じだから「世継神社縁起之事」を椿井文書だと鑑定できるなら、 その作者は木津の系図業者の阿部さん https://t.co/IswDvttPj0 になるよ。 中村直勝の云う木津の今井家椿井家の変名かもしれないけど。 対岸の椿井村に江戸時代住んでいた椿井政隆さんじゃない https://t.co/R9lks4Otfm
百済王神社の『百済王霊祠廟由緒』は 木津の系図屋さんの阿部さんに頼んで作ってもらったもので、 対岸の椿井村に江戸時代住んでいた椿井政隆さんに頼んだ椿井文書じゃないよ。 https://t.co/IswDvttPj0 https://t.co/KNCU3p9g2k
西村天囚が王仁木像と掲載した物は実は王辰爾と他の学者が主張し絵葉書になる https://t.co/JKcbsBMFoi 1911年三宅氏は三ノ宮神社古文書を1895年購入した際の経緯を記載、三松氏を王仁末裔と書く。 椿井文書メモ
明朝体で書かれた縁起書といえば百済王神社のそれが新書椿井文書に掲載されてる。 当時の記録でも木津で作ってもらったとあけすけに話してるし、 2回の火薬庫大爆発事故があった地域なので作り直したのかも。 これと世継神社縁起之事とは書体は違う様に思う。 https://t.co/IswDvttPj0 https://t.co/nOrc2lQf8u
元々伝王仁墓と百済王氏墓がある『当郷旧跡名勝誌』の字御墓谷は、書いてある距離・方角の通り津田村の鬼門の土山神社(ちんじんさん)で、 百済王神社のちんじさん https://t.co/JKcbsBMFoi ではないかな。 椿井文書メモ https://t.co/5SanjCCj4K
400圓という大金を大方を富農の三宅氏に負担させる共通目的が、椿井文書作成者と中村直勝が言う今井家と思われる今井良政と、三松俊季にあったとしたら? 三松氏が王仁末裔と書かれているのはお読みになられたはず。 三松氏は華族参入の野心が有りました https://t.co/BavZIM2Yc1 https://t.co/O3DMppLflB
@pririn_ 三松氏は爵位を授かる予定だと民俗学者に述べているから https://t.co/BavZIM2Yc1 野心があった。 京都府の南山郷士もそうだけど、江戸~明治時代は家系の格を上げる系図の偽作は珍しくなかったようだから、 中村直勝が記録した椿井文書のように三松氏側が系図をオーダーした可能性があるわけね。
@TaniYoko 明治初年に菅原村の宝として購入した『王仁墳廟来朝紀』は少なくとも村人は目にしてるから、 その著者の名前は広まっていたかも。 中村直勝が記録した椿井文書みたいに 百済王神社縁起書は木津の系図屋さんの阿部さんに頼んだそうだけど、系図は割合偽作が多いんだろうな。 https://t.co/IswDvttPj0
桓武帝他の郊祀が記録に残っている物だけとも限らない。 百済王氏の末裔という家伝がある三松家はチンヂ様の木像を王仁として祀ってたそうだけど https://t.co/JKcbsBMFoi 、 津田村の土山神社はちんじん様。 明治始め神社整理された土山神社は堂山。王仁埋葬伝承は上ノ堂 https://t.co/rICmDjouq4 https://t.co/4vODOdkfcj
士族に編入され京都府議会議員達を輩出した南山郷士の流れという系図は名誉だものね。 でも南山郷士は明治時代にできたグループ。 椿井文書の椿井政隆(1770-1837)はそこまで計算づくだった? それとも木津の阿部さんみたいな系図業者が明治時代に作った? https://t.co/IswDvttPj0 https://t.co/Vkhdq3RhP4
でも『王仁墳廟来朝記』を椿井文書というには、 西村家系図が明治時代に木津の系図屋さんに作られたものではない https://t.co/IswDvttPj0 と立証しなくてはいけない。
『郷社三之宮神社古文書伝来之記』に三松氏が王仁末裔と書かれ 三松氏達が三之宮神社古文書と同時に購入した西村系図に『王仁墳廟来朝記』著者名があり 三松氏宗廟の百済王神社縁起書は木津の系図書きの阿部氏に頼んだと記録されてるのに、 虚偽である可能性が低い?椿井文書 https://t.co/BavZIM2Yc1 https://t.co/GjpxMASAur
爵位が予定されていると話している 三松氏の宗廟・百済王神社の縁起は、木津の系図書きの阿部さんに頼んだものと https://t.co/BavZIM2Yc1 。 禁野は1909年・1939年火薬庫大爆発事故があったので焼失した可能性あり。 椿井政隆(~1837)より、中村直勝氏の明治の木津の業者達の可能性が高い https://t.co/sz62zqs5CZ
新書『椿井文書』に写真掲載された百済王神社の縁起も、 百済王神社神職は【木津】の阿部さんに頼んだものと公言していて【上狛の椿井村】の椿井政隆は関係していない。 https://t.co/JKcbsBMFoi
新書『椿井文書』掲載の百済王神社の由緒書きも 神職の方があけすけに木津の阿部さんに頼んだと言ってるから、 当時は由緒書きや家系図を業者さんが綺麗に纏めるって普通だったんだと思う。 https://t.co/BavZIM2Yc1 https://t.co/uxsHiXcNKi
椿井文書で引用された『郷社三之宮神社古文書伝来之記』三宅氏,1911に三松氏は王仁末裔と。 1918年系図では百済王氏末裔と https://t.co/bvNFyFGNfn 。 王仁と百済王氏の墓は地元の尊光寺『当郷旧跡名勝誌』1682によれば御墓谷にあると。 王辰爾と王仁同一人物説 https://t.co/JKcbsBMFoi
西洋砲術家の三松家は1911年『郷社三之宮神社古文書伝来之記』では王仁の末裔、 1918年公表の家系図では百済王家末裔。 三松家の伝承では矛盾しない https://t.co/JKcbsBMFoi 。 椿井文書に写真が掲載された宗廟由緒書きは木津の阿部さんにたのんだもの https://t.co/IswDvttPj0 で椿井政隆ではない
西洋砲術家の三松家は1911年『郷社三之宮神社古文書伝来之記』では王仁の末裔、 1918年公表の家系図では百済王家末裔。 三松家の伝承では矛盾しない https://t.co/JKcbsBMFoi 。 椿井文書に写真が掲載された宗廟由緒書きは木津の阿部さんにたのんだもの https://t.co/IswDvttPj0 で椿井政隆ではない
西洋砲術家の三松氏は 1911年『郷社三之宮神社古文書傳来之記』では 王仁末裔と書かれ 1918年百済王氏末裔の系図を配布し https://t.co/tXaeeRi9UO 三松氏宗廟の神職はその縁起は木津の阿部さんにたのんだと話している https://t.co/BavZIM2Yc1 王辰爾と王仁は同一人物説か? #椿井文書
1931年三松氏宗廟の縁起-椿井文書に写真掲載-は木津の阿部さんのと「縁起……先代の神官が、木津の阿部さん(此の地方で有名な系圖書きで、大和・河内の神社佛閣には、この者の手になる偽縁起が頗る多い)に頼んで、三十両といふ金を出したものだそう……」日本民俗学隨筆篇 https://t.co/BavZIM2Yc1
三松氏宗廟の百済王神社由緒は、木津の阿部さんに頼んだ物(1909年禁野火薬庫大爆発事故があったので、無から創作したとは限らない) https://t.co/IswDvttPj0 。 では『王仁墳廟来朝記』の著者は誰だろう? 1616年道俊? 椿井政隆か息子の萬次郎? 木津の系図作成業者の阿部さん? それとも他? #椿井文書
彼等の庫内に「たまたま」あった 君が探していた物とたまたまドンピシャで一致する物 なる物を買ったら、それは偽造された物であるという本当の事を知られているから、支配される。 本当の事は誰にも言えない。 サラリと云えば https://t.co/BavZIM2Yc1 支配されない。 毒饅頭でもある。 #椿井文書 https://t.co/El2GR7PxQI
@tonchi_jin 百済王神社の縁起は新書『椿井文書』にも写真が掲載されていますが、そのすぐ北の禁野火薬庫が 1909年大規模爆発を起こし約1495戸全半壊。 無から有ではなく、焼失した物を木津の職人さんに再現してもらったのかもしれません https://t.co/IswDvttPj0 。
@tonchi_jin 椿井文書は職人が造ったもんやのうて、江戸時代の椿井政隆はんが作りなさったもんを庫内から探してきてたまたまあったもんやでという方便は、 ぶぶ漬けほんまに喰っちゃるとする大阪人に通じない https://t.co/XB9VV783z5 。 全部面白がってばらしてしまいます https://t.co/IswDvttPj0 。
@tonchi_jin 戦前戦後の研究者は椿井文書を木津文書とも呼びますが、 滋賀県奈良県京都府に特に多いそうです。 大阪の河内の人はあけすけで豪快なので、全部簡単にバラしちゃいますね。笑 https://t.co/IswDvttPj0 だからこそ椿井政隆遺物を庫内から探してきたという方便は秘匿の為に大事だったんだろうけれど
(゜-゜)では『王仁墳廟来朝記』は椿井文書でなく本物かといえば、原本が無いし、 1907年吉田東伍教授の大日本地名辞書第二版へ伝王仁墓は実はアテルイの墓だと書かれたのに反発し 王仁末裔と書かれた三松氏か誰かが木津の阿部さん https://t.co/IswDvttPj0 とかに頼んだものじゃないかな? https://t.co/8YZwzkwDQV
三松家宗廟の百済王神社にある王仁木像は王辰爾だという学者がいたそうな https://t.co/JKcbsBMFoi 。 百済王神社由緒は禁野火薬庫爆発で焼失したのか、木津の阿部氏へ頼んだものだという。 https://t.co/IswDvttPj0 #椿井文書
三松家宗廟の百済王神社にある王仁木像は王辰爾だという学者がいたそうな https://t.co/JKcbsBMFoi 。 百済王神社由緒は禁野火薬庫爆発で焼失したのか、木津の阿部氏へ頼んだものだという。 https://t.co/IswDvttPj0 #椿井文書
三松氏の宗廟・百済王神社の由緒は木津の阿部さんに頼んだそうだけど、新書『椿井文書』掲載の『百済王霊祠廟由緒』かも https://t.co/IswDvttPj0 。 元々の神社はこの古墳みたいな丘の上にあった #椿井文書 https://t.co/6CyqhkW2qJ
『椿井文書』掲載の『百済王霊祠廟由緒』は木津の系図業者・阿部さんに頼んだものみたい https://t.co/IswDvttPj0 。 たぶん『王仁墳廟来朝記』も、吉田東伍が大日本地名辞書で伝王仁墓は本当は #アテルイ だと書いたから、 今更それはヤダと慌てて誰かが造らせたのかも??? #椿井文書 https://t.co/WbWL3O0om3
明治時代に木津の業者さん-この本 https://t.co/IswDvttPj0 の阿部さんとか-達が作ったそれと、 江戸時代の郷土史家・椿井政隆作の物を混ぜて #椿井文書 としてしまっていいのだろうか?
三松俊季氏の息子を訪問した民俗学者が三松家祖廟の由緒書き(おそらく「椿井文書」,P.44,中公新書の写真の物)を木津の阿部さんに頼んだと記録してるということは、 三松俊季から聴いて1911年三宅氏が記録したお話しも、木津の業者さんへ #椿井文書 を頼んだというお話しでは? https://t.co/IswDvttPj0 https://t.co/a5f0liGQMg
。三宅源治郎へ朱智神社中川氏から聴いたストーリーを話した三松俊季の子供を訪ねた民俗学者へ、三松家祖廟の百済王神社由緒書きを木津の阿部氏に頼んだと神官は語ってるから https://t.co/IswDvttPj0 、中村直勝氏の記録が真だと思うけど #椿井文書 https://t.co/4e31co8zEC
椿井政隆云々と朱智神社中川氏から聴いて三宅源治郎氏へ話した三之宮神社神職三松俊季氏の息子さんが 百済王神社(三松家祖廟でもある)由緒書きを木津の阿部さんへ三十両で頼んだ云々というお話で登場する三松俊雄氏(「日本民俗学.隨筆篇」P.56,中山太郎) #椿井文書 https://t.co/IswDvttPj0
56頁,中山太郎,日本民俗學随筆編,大岡山書店,1931年 https://t.co/IswDvttPj0
椿井文書は椿井政隆一人作説の根拠は 1911年三宅源治郎が1888年頃 三松俊季から聴いた、椿井政隆遺族→木津の今井良久→朱智神社中川政勝という経路の伝聞で二次史料。 その三松俊季の息子・俊雄は百済王神社縁起を木津の阿部氏に作成してもらったと証言。笑 https://t.co/BavZIM2Yc1 みんなバカねぇ
その三松俊季氏の息子の三松俊雄氏は中山太郎氏へ近く受爵すると述べてた。百済王家末裔という系図を出されていたし。 でも百済王神社の縁起は木津の阿部さんに造ってもらったとあけすけに話していたりもする。 #椿井文書 https://t.co/IswDvttPj0
木津の阿部さんに作成してもらったとあけすけに話してるのに、信用していいのかなぁ https://t.co/IswDvttPj0 。 木津地域では中村直勝氏が記録した様に 明治政府が定義した社格が上昇する由緒書きを製造販売していたのでは? #椿井文書 https://t.co/4e31co8zEC
P.56,日本民俗学 隨筆篇,中山太郎, 大岡山書店,1931 https://t.co/IswDvttPj0 中村直勝氏は木津文書とも書いてた。 #椿井文書

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