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1895年11月23日大阪朝日新聞で歴史学者の内藤湖南と前内閣府書記官長高橋健三が伝王仁墓の由来を聞き https://t.co/y36OjZmnHv 1900年『大日本地名辞書』で歴史地理学者の吉田東伍は伝王仁墓=鬼墓を宇山で斬られたアテルイの墓と言いだしhttps://t.co/RFMPqbCtTv 椿井文書メモ
1895年11月三ノ宮神社古文書を木津の今井家から購入 1895年11月23日と26日大阪朝日新聞報道; 前内閣府書記官長高橋健三(別号:吟淵)と 京都帝国大学の歴史学者内藤湖南が王仁墓で村長から由緒を聴く https://t.co/3YtfQhBnpx 1897年禁野火薬庫開設 椿井文書メモ
1895年11月、三ノ宮神社古文書を木津の今井家から購入。 1895年11月23日と26日大阪朝日新聞報道; 前内閣府書記官長高橋健三(別号:吟淵)と 京都帝国大学の歴史学者内藤湖南が王仁墓で村長から由緒を聴きいてる https://t.co/3YtfQhBnpx 。現在の定説の元となる話。 椿井文書メモ https://t.co/NZcw4Ag8Km
寛永20(1643)年久貝因幡守正俊が津田村・八田広を津田の新田村にしようとしたその前の 1616年に伝王仁墓を「藤坂村」と書く『王仁墳廟来朝紀 https://t.co/Xobx1hhQvT 』はたぶん偽書というのはそうなんだけど、 著者が椿井政隆でないと椿井文書に該当しないという問題が https://t.co/So4BEzf8g4
1868年購入と1939年10月10日大阪朝日新聞が報道した『王仁墳廟来朝記』が 1895年歴史学者内藤湖南達訪問時に無い前提で村長が話し 1908年『博士王仁』で『王仁墳廟来朝紀』筆写掲載された原因は https://t.co/Xobx1hhQvT 、 1895-1908年の間のイベントの可能性が高くね? 椿井文書メモ https://t.co/eSExTsIvHI
1908年(明41)筆写が世に出た『王仁墳廟来朝紀』 https://t.co/Xobx1hhQvT が 1895年(明28)内藤湖南達未整備な王仁墓へ訪問時に出て来ない https://t.co/puRuUTTZZ4 原因が 1900年初版1907年二版の大日本地名辞書でなく 1904年(明37)日露戦争で中止した王仁墓整備工事? 因果推論変くね?椿井文書メモ https://t.co/TX3Rrar0qu
1908年(明41)筆写が世に出た『王仁墳廟来朝紀』 https://t.co/Xobx1hhQvT が 1895年(明28)内藤湖南達未整備な王仁墓へ訪問時に出て来ない https://t.co/puRuUTTZZ4 原因が 1900年初版1907年二版の大日本地名辞書でなく 1904年(明37)日露戦争で中止した王仁墓整備工事? 因果推論変くね?椿井文書メモ https://t.co/TX3Rrar0qu
内藤湖南達は明治28年(1895年)王仁墓訪問時に村長から話しを聴いたけど https://t.co/puRuUTTZZ4 、 『王仁墳廟来朝記』には触れてない。 1939/10/10大阪朝日新聞では、明治初年に村の宝として買ったと書いてあるにもかかわらず。 1900年大日本地名辞書のアテルイの墓説が出て来てからの物と思うな
が大日本地名辞書出版の1900年、第二版が出た1907年以降は特に必要となったんじゃないかなぁと。 「王仁墳廟来朝紀」の【筆写】が公開されたのは1908年。大阪府への申請書は原本の写真掲載なのに、筆写が掲載されてる https://t.co/Xobx1hhQvT 。 中村直勝が記録した明治時代の椿井文書かなぁ?と
なぜ吉田東伍は伝王仁墓は実はアテルイの墓とちゃうの https://t.co/RFMPqbkkFn ?と書いたんだろう? だから『百濟墓與紀』とでっち上げたの?? https://t.co/Xobx1hhQvT 宇山東町の古墳の伝承は蝦夷の頭領でアテルイと限定してないのに。 明治時代の業者の偽作又は中村直勝の云う椿井文書? https://t.co/vsV4QTVdYT
明治41年の伝王仁墓は藤坂村なんだけど https://t.co/qkTeji4iYC 、 1770年椿井文書の椿井政隆が誕生する前に王仁の墓が書かれたこれらの文献の当時の住所地がわからない。 1735年五畿内志 1689年八幡宮本紀 1682年当郷旧跡名勝誌
椿井文書論文では藤坂村だけど、 藤阪にあると最初に書いたのは 1900年大日本地名辞書 または 1616年王仁墳廟来朝記(道俊?または椿井政隆(1770-1870)?それとも明治時代の木津の職人さん?)。 王仁墳廟来朝記は少なくとも1908年には存在してる https://t.co/Xobx1hhQvT 。
@TaniYoko 河内名所図会6巻 「藤坂村の東北御墓谷にあり石標王仁之墓」 https://t.co/Qux3NLeH8Q 1895年前内閣府書記官長高橋健三(吟淵)と内藤湖南 https://t.co/jQru2z1LCM 1900年大日本地名辞書 「大字藤坂に鬼墓あり夷酋の墳歟」 https://t.co/p3Sulvu6vY 2005年椿井文書論文では津田の新田=藤坂
@pririn_ 新書椿井文書のこれは村の古記録が元ネタ「村長……並川某畿内誌編纂……王仁の古墳を一見し其荒廢……時の領主久貝彌右衛門……享保十六(*1731)年といふに建立せしもの https://t.co/WrnTnUKKv4 」大阪朝日新聞189511/23・26高橋健三(吟淵)&内藤湖南 https://t.co/WrnTnUKKv4 https://t.co/HpZvKWwwDm
王仁墓があるのは「御墓谷」 https://t.co/qkTeji4iYC 。 御墓山にあるのは百済王の墓と石棺。 「御墓山之山 一 札場ヨリ十余丁計寅ノ方ニ御墓谷ト云字アリ。古老ノ伝説ニハ中宮村住居之百済王ノ御墓ト云ヘリ」 「上ノ堂ノ事……逝去ノ時石ノ櫃ニ納メテ土入ス。御墓山是ナリト云ヘリ」椿井文書では地 https://t.co/tQDCzaRKbq
@pririn_ 享保16(1731)年並河誠所の願いで領主久貝彌右衛門が博士王仁之墓建立というお話を 明治28年(1895年)村長から聴いてそれを朝日新聞で書いてしまう 内藤湖南博士と吟淵(前内閣府書記官長高橋健三) https://t.co/WrnTnUKKv4 もちょっとね。 椿井文書でもこの記事について書いて欲しかった。
1939年内藤湖南博士と吟淵(前内閣府書記官長高橋健三)が村長から聴いた 享保16(1731)年並河誠所の願いで領主久貝彌右衛門が博士王仁之墓建立 https://t.co/puRuUTTZZ4 は新書椿井文書にも書いてある。 同時に彼等が村長から聴いたお話しでは
明治初年購入かどうかわからない。 1908年活字化した物しか見られない https://t.co/Xobx1hhQvT 。 1939年10月10日大阪朝日新聞によると『王仁墳廟来朝記』は 中山久四郎博士がお墨付きを与えた古文書だそうだけど。 椿井文書なのかな?椿井政隆息子椿井萬次郎達南山郷土の人達と関係あるのかな? https://t.co/vSyo1Mqyee
伝王仁墓は実はアテルイ墓と吉田東伍が書いた第二版が出た https://t.co/RFMPqbkkFn 翌年の 1908年『王仁墳廟来朝記』は公になった https://t.co/Xobx1hhQvT 。 でも大阪朝日新聞昭和一四(1939)年十月十日朝刊は、幕府系図方にあったものを明治元年頃村人が買ったと書いた。 #椿井文書
1895年11月大阪朝日新聞勤務の前内閣府書記官長高橋健三 https://t.co/vb6bgDhZjJ は歴史学者内藤虎次郎と共に伝王仁墓を訪ね墓石の由来を村長から聴き出している(明治28年11月23日・26日,大阪朝日新聞) https://t.co/y36OjZ4etn #椿井文書
紅葉山文庫→内閣文庫? https://t.co/TUtEOtdDBr 1895年大阪朝日新聞勤務・前内閣府書記官長高橋健三と内藤湖南博士来村&報道 https://t.co/puRuUTTZZ4 1939年『王仁墳廟来朝記』 ・幕府の系図方が保管 ・中山久四郎東京帝国大学博士の折り紙付きと大阪朝日新聞 https://t.co/oVVJnlm7Vs #椿井文書 https://t.co/LMCjMBzXmw
1907年大日本地名辞書で吉田東伍が藤坂のオニ墓は実はアテルイの墓だよと第二版を出した翌年の 1908年に元朝日新聞の木崎好尚が巻首を書いた『博士王仁 : 文学始祖』で「王仁墳廟来朝記」を掲載した際に【ニーズに合わせて】造ったのかもしれないのに #椿井文書 https://t.co/Xobx1hhQvT
1908年『王仁墳廟来朝紀』が世に出て https://t.co/Xobx1hhQvT 、 1939年10月10日大阪朝日新聞第7面にて、 中山久四郎折紙付きで 明治初年(1872年頃)入手された物と書かれる。 椿井政隆が死んだのは1837年。 椿井政隆はどうやって数十年後の「ニーズ」を予見したのだろう? #椿井文書
写しではない『王仁墳廟来朝紀』が図書館にあることになっているけれど、 ならなぜ1908年寺島彦三郎 編『博士王仁 : 文学始祖』 https://t.co/Xobx1hhQvT では『王仁墳廟來朝紀寫(写)』を掲載したのだろう? #椿井文書
『王仁墳廟來朝紀寫(写)』は 寺島彦三郎 編『博士王仁 : 文学始祖』1908 https://t.co/Xobx1hhQvT 『王仁塚』1989掲載の1934年5月30日付け府への提出書類にある。 『王仁墳廟来朝紀』は P.73"王仁塚"片山長三,懐徳,1955/10 と #椿井文書
1907年吉田東伍が #アテルイ 宇山で斬られ藤坂・鬼墓(伝王仁墓)で葬と報告 1908年博士王仁を出版 https://t.co/VZySyb2Crc 1954年宮川徒氏伝阿弖流為母禮之塚のある牧野公園で牧野阪古墳破壊を報告 1955年片山長三は王仁墓と証明不可と報告 #椿井文書 https://t.co/veRsDdSuJK
本当に村人が勝手に顕彰運動を起こしたというのが史実かなぁ?「大阪朝日新聞明治二十八年十一月廿三日及廿六日ノ紙上ヨリ掲載 編者云著者吟淵氏ハ前内閣書記官長高橋健三氏の別號ナリ 王仁の古墳を訪ふ 吟淵 https://t.co/y36OjZ4etn 」 #椿井文書
https://t.co/pCVTL5Ww7k | 藤沢南岳 https://t.co/Y7NljIHKye 西村醉處 https://t.co/1SxPfMAgBr 吉村秋陽 https://t.co/AzA51d9AHC 皆川淇園 https://t.co/fISvivDsC2 #椿井文書
「日本國民は如何に博士その人を尊重敬仰して足れりとするそこの大恩人この偉人物の遺跡は河内國藤阪の里に……博士王仁の出つる豈偶然ならんや」博士王仁, 1908 https://t.co/VZySyb2Crc 木崎好尚(明治26年大阪朝日新聞社に入社……退社後は専ら金石学研究 #椿井文書 https://t.co/1sejQ7MzaG
1907年突然新潟出身の吉田東伍が大日本地名辞書で藤坂鬼墓は阿弖利為の墓と書いた後で 1908年地元民の寺島彦三郎が「博士王仁 : 文学始祖 https://t.co/N9RRODIwAM 」で王仁墓だと強調したのは、 五畿内志(1733)で王仁墓って言ってたのに急になぜ?という思いがあったからでは? #椿井文書 #アテルイ https://t.co/yF6h5zRXHj
1907年新潟出身の吉田東伍は大日本地名辞書で藤坂鬼墓は阿弖利為の墓と突然書いた。 当時は京都伏見の並河さんが五畿内志(1733)で王仁墓と書いたのを基に王仁博士墓としての整備が進められていた https://t.co/1pXCLcRvaV 。 地元民にとっては割と最近まで歯痛石。 #椿井文書 #アテルイ https://t.co/h6b5eZq9Lz

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