- 著者
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高山 龍太郎
- 出版者
- 富山大学経済学部
- 雑誌
- 富山大学紀要.富大経済論集 (ISSN:02863642)
- 巻号頁・発行日
- vol.52, no.3, pp.603-652, 2007-03
富山県の地域性は、しばしば東西に分けて語られる。県中央部にある呉羽丘陵を境に、県東部を「呉東」(ごとう)、県西部を「呉西」(ごせい)とする呼び方は、そうした人びとの認識の一例である。たとえば、富山県を全国の人びとに紹介するある本は、富山県の市町村を呉東と呉西に分けて紹介している(須山 1997)。また、国民的作家と呼ばれた司馬遼太郎も、『週刊朝日』の連載「街道をゆく」のなかで、呉東と呉西という言葉にふれ、「人文的な分水嶺を県内にもつというのは、他の府県にはない」(司馬 1978:116)と紹介している。今回の私たちの調査でも、回答者の95%の人が、富山県を呉東と呉西という呼び名で二分されることを知っており、75%の人が、呉東と呉西の間に全般的な違いがあると考えていた。このように、富山県を東西に分けて把握する認識は、かなり一般的である。しかし、こうした認識枠組みがある一方で、現実の富山県の東西の違いはなくなりつつある。自動車を中心とする交通手段の発展は、富山県をますます一体化させている。本稿の目的は、こうした問題意識にもとづき、富山市と高岡市でのサーベイ調査から、富山県の東西の違いが、実際にどのくらい存在するのかを、実体と人びとの意識の両面から具体的に明らかにすることである。調査の概要は、以下の通りである。富山県の東西をそれぞれ代表する都市として、富山市(東)と高岡市(西)を調査対象に選んだ、調査は、2005年12月から2006年1月にかけて、自記式郵送法による標本調査でおこなっている。実査の対象者は、富山市と高岡市から、500めいずつ合計1000名を選んだ。実査対象者の標本抽出には、選挙人名簿を台帳として二段階抽出法によっておこなった。回答者は446名(富山市213名、高岡市233名)で、回収率は全体で44.6%(富山市42.6%、高岡市46.6%)であった、