- 著者
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大熊 信行
- 出版者
- 高岡高等商業學校研究會
- 雑誌
- 研究論集
- 巻号頁・発行日
- vol.12, no.4, pp.617-665, 1940-02-25
日本の經濟學の情況にたいする、遠慮のない、きはめて適切な、時宜をえた―つの批評があらはれ、われわれに反省をうながしてゐる。それは東京帝國大學助教授安井琢磨氏によつて、學術論文としてではなく、むしろ随想として近ごろ書かれたものであるが、そのなかには日本における洋書の飜譯の氾濫とその吸収力の間題が一つの疑問として述べられてゐる。『飜譯書が思想的移植の出發點である代りに却て終末點となってゐるやうな不幸な實例』の多いことが歎かれてゐるのである。『―つの名譯書にもられた思想が長い間かかつて十分吟味され、咀嚼され、さうして養分として取入れられるなどといふことは減多にない』といひ、そしてつゞけて安井教授は諧謔をもつて語つてゐる。-『多くは嗅ぎ廻り、誉め廻し、食ひ散らして、いつの間にか忘れられてしまふ貪婪な舌の前にはシュムペーターも、ゴットルもリストもそれぞれ同じ膳の一皿である。しかしシュムペーターの一片とゴットルの一片とリストの一片とはどうしてもうまく胃の中で調和しない。食手は腹痛を覺えて下痢をする。さうしてみんなはき出してしまふ』と。本論文はそのやうな情況のもとで、むしろ―つの邦譯書を研究の主題とするのみではない。ゴットルも、シュムペーターも、いはゆる『同じ膳の一皿』として、すべての外来物を敢て同時に咀囁すべきものとして、とりあげようとする一聯の努力の―つに属するものといふことができる。西洋學説の攝取に關する一般的態度の問題は、すでに『西洋經濟學における綜合』と題する一論で述べた。