- 著者
-
恒川 正巳
- 出版者
- 富山大学人文学部
- 雑誌
- 富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
- 巻号頁・発行日
- vol.59, pp.121-134, 2013-08-26
E. M. フォースター(E. M. Forster)の『眺めのいい部屋』(A Room with a View)は,1908 年に彼の3番目の小説として出版された。ただし,執筆が開始されたのは彼の小説のなかでは最も早く,作品の構想を記したメモが1901 年から翌年にかけて作成されている。完成までの6 年間にフォースターは執筆を2度やり直し,その結果『眺めのいい部屋』は姉妹版ともいうべき物語を2つ持つことになる。アビンジャー版フォースター著作集の1 冊The Lucy Novelsに収められているこの2作品は,通常「旧ルーシー」("Old Lucy") ,「新ルーシー」("New Lucy")と呼ばれる(Stallybrass vii-ix)。どちらの作品も断章や矛盾する記述を含んでいて物語としては未完成ではあるが,『眺めのいい部屋』のいわば別バージョンとして興味深い。『眺めのいい部屋』を含むこれらの3作品は,主人公ルーシーをはじめ主要な登場人物や物語世界をかなりな程度まで共有しつつも,はっきり異なる部分を持つ。たとえば,「旧ルーシー」のストーリーは,フィレンツェに滞在する英国婦人たちが企画するチャリティ・コンサートをめぐって展開するが,この出来事は『眺めのいい部屋』には採用されていない。「新ルーシー」においては,『眺めのいい部屋』でルーシーと結婚し,物語を幸福に締めくくるのに欠かせない登場人物のジョージ・エマソンが,ルーシーとの結婚直前に事故死してしまう。3作品はきわめて近い関係にあり,たとえその創作にまつわる事実をまったく知らない読者が読んだとしても,その共通する要素に容易に気づくことができるだろう。一方で3作品は矛盾する内容を持つため,1つの物語世界に並存することはできない。「旧ルーシー」,「新ルーシー」,『眺めのいい部屋』は,不安定な間テクスト関係を結びながら,たがいの物語の潜在要素を浮かび上がらせている。 3作品のこうした特質を解明する考察の一環として,本論では「旧ルーシー」と『眺めのいい部屋』の主要登場人物の特性の変化を分析する。「旧ルーシー」の主人公ルーシー(以下,区別する必要がある際には旧ルーシーと呼ぶ)と彼女の友人アーサー氏に,『眺めのいい部屋』のルーシーとジョージには見られない,どのような特性が賦与されているのかを確認する。結論を先取りして述べると,旧ルーシーは,『眺めのいい部屋』のルーシーにくらべて物語冒頭から独立心が強く,現状への不満を強く意識している。主人公のこの特性にふさわしい結末として,「旧ルーシー」はルーシーがみずからの決断でフィレンツェを離れることで一応の終わりを見る。アーサー氏は,ジョージにくらべて,その知的,芸術的特性が強調されている。画業を志しイタリアへやって来た彼は,思索の結果,進むべき道が別にあることに気づく。旧ルーシーがそうであるように,アーサー氏もジョージにくらべてずっと内省的である。以下,こうした点を具体的に確認するにあたって,本論はまず,登場人物を考察するための分析アプローチのあり方を概観する。その際とくに,ユーリ・マーゴリン(Uri Margolin)が可能世界意味論の観点から物語世界の人物について考察した一連の論文に注目する。