著者
米山 喜久治
出版者
北海道大学大学院経済学研究科
雑誌
經濟學研究 (ISSN:04516265)
巻号頁・発行日
vol.64, no.1, pp.91-117, 2014-06-10

明治以降日本の大学制度と研究,教育は,欧米からの輸入(技術移転)に基づくものであった。この流れの中に1930年代文化的成熟として「学問は模倣ではなく,建設するものである」という「学問観」を核に横につながる研究者集団が誕生した。登山と探検を志す今西錦司とそのグループである。自然学者今西錦司は,京都の町衆の伝統文化に育った都市の民であり同時に自然の子であった。知りたいと思う色も匂いもある生きた自然,現場を前にするとき輸入「学説」も1つの素材に過ぎない。命ある世界に直接向かい合うとき必要なのが「五感,直観」と「方法論」である。幾多の登山,探検のパイオニアワークによってグループ内に共同研究(チームワーク)のノウハウと方法論が開発,共有された。その「副産物」が川喜田二郎の「KJ法」と梅棹忠夫の「知的生産の技術」として体系化され公開された。この2つは1970年代に始まる日本の情報化社会に大きなインパクトを与えた。特にKJ法は,フィールドワークによるオリジナル・データをまとめる研究方法論から「発想の技法」,「情報処理」さらには「管理」の手法として普及した。

言及状況

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既読でしたら申し訳ないのですが、http://t.co/NGADKBZo5Pに詳細ありますね。 RT @aloha_koh: 川喜田二郎はもともとKJ方を「紙きれ法」として学会発表してたのか.

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