著者
時 渝軒
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.135-149, 2016-01-15

大江健三郎の『取り替え子』に対して、これまでの先行研究は主にテクストの中核を据える「アレ」に解釈を加え、分析してきた。だが、事実との関連性であれ、超国家主義の暴力であれ、いずれの解釈も作中で言及された過去の作品と本作とのつながり、つまりセクシュアリティの問題を見逃している。共同了解を前提とする「アレ」はテクストにおいて、「嘘」の仕掛けにほかならない。焦点人物である古義人は「友情」というイデオロギーで自分の吾良に対する同性愛指向を隠蔽している。その隠蔽を暴くために、もう一人の焦点人物千樫の視点が導入されたわけである。一方、ホモソーシャルな機構である錬成道場のホモフォビアによって、古義人と吾良の摸擬同性愛関係が暴力の形で排除された。テクストで不分明である「アレ」は要するに、吾良のセクシュアリティと古義人のホモセクシュアリティを起点とし、ホモソーシャルな社会の暴力をクライマックスとする出来事の全体である。このように、過去の自作における身体的な同性愛表象から脱皮し、身体への欲望を媒介とする想像上の同性愛表象こそは、『取り替え子』というテクストの達成と言えよう。この過程において、同性愛表象 を扱った過去の作品が招喚されたり、改訂されたりすることで、読者が先行作品を通じて積み重ねた「アレ」=「大江文学における同性愛表象」が書き直されたのである。

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