著者
西本 昌弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.134, pp.75-90, 2007-03-30

薬子の変については、藤原薬子・仲成の役割を重視してきた旧説に対して、近年では平城上皇の主体性を評価する見方が定着しつつある。これに伴い、「薬子の変」ではなく、「平城太上天皇の変」と呼称すべきであるとの意見も強くなってきた。しかし、平城上皇の主体性を強調することと、薬子・仲成の動きを重視することとは、必ずしも矛盾するものではない。私は前稿において、皇位継承に関する桓武の遺勅が存在した可能性を指摘し、平城上皇による神野親王廃太子計画について考察を加えた。私見によると、薬子の変もこの桓武の遺勅を前提とする神野廃太子計画と一連の動きのなかで理解することができると思われる。そこで研究史を振り返りながら、平城・嵯峨両派官人の動向に再検討を加え、薬子の変にいたる原因と背景について考察した。本稿の結論は以下の通りである。桓武天皇は死去のさいに、安殿・神野・大伴の三親王が各一〇ヶ年ずつ統治すべきことを遺勅したが、平城はこれを破って、第三子の高岳親王を皇位につけようとし、神野親王の廃太子を計画した。薬子の変の遠因は神野廃太子計画にも通じるこの皇位継承問題であり、平城の即位前後から平城派と嵯峨派の両派官人の対立ははじまっていたとみられる。神野の廃太子に失敗した平城は、三年ほどの治世で譲位した。これは嵯峨が一〇ヶ年統治したのち平城が数年間復位して、高岳への皇位継承をより確実にしようとの意図からであった。しかし、嵯峨が平城のこの提案を拒絶したため、平城は譲位したことを後悔しはじめ、嵯峨側との対立をさらに深めていった。薬子の変の直前には、平城派の官人が衛府や要衝国の国司に任じ、かつて北陸道観察使であった藤原仲成らが越前方面などで平城派の勢力拡大に努めていた。このため嵯峨側は弘仁元年(八一〇)九月、平城派官人の衛府や国司の任を解き、彼らを辺遠国に左遷するとともに、自派の官人で衛府と要衝国を固めた。また伊勢・近江・美濃三国の国府と故関に遣使して鎮固し、平城側の蜂起を未然に防ぐことに成功した。薬子の変では越前・近江・伊勢方面に勢力を扶植した仲成の活動が突出しており、平城の藩邸の旧臣の多くは平城に同調しなかった。変における平城上皇の主体性は否定できないが、薬子らの父種継の復権・顕彰が図られた事実や、薬子・仲成の係累が乱後も長く許されなかった事実を勘案すると、薬子・仲成がやはり中心的な役割を果たしていたことを認めない訳にはゆかない。平城上皇や薬子・仲成にとって、王都・王統に関する桓武の構想は否定すべきものであり、それゆえその遺命を無視して、高岳立太子を実現し、平城遷都を計画したのである。薬子の変は桓武の構想を肯定するか否定するかの戦いであったといえる。

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