著者
小川 功
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 = JOURNAL OF ATOMI UNIVERSITY FACULTY OF MANAGEMENT (ISSN:13481118)
巻号頁・発行日
no.10, pp.1-18, 2010-10

京都の洛西地区の地主・名望家グループの風間八左衛門,小林吉明らは町村長・議員等として地域の行政・政治に関わる一方,明治30 年代から40 年代にかけて地元の嵯峨・嵐山の地域振興,観光振興を目論み,名勝旧跡の保存・紹介,嵐山焼など名産品の開発を行う傍ら,1、温泉会社,2、遊園会社,3、水力電気,4、銀行等を共同で発起した。本稿ではこのうち嵐山温泉,嵯峨遊園両社を取り上げたが,彼らは外人観光客を対象とした名所案内,環境整備等にも努力し,外人誘致にも貢献した。1、嵐山温泉は無色透明の炭酸冷泉であったが,渡月橋畔から船で嵐峡の清流を遡る風景絶佳の地にある老舗旅館として内外の観光客に愛好された。また2、嵯峨遊園は葛野郡による嵐山公園設置の経費を使用料として調達する意味から,公園内に遊覧客向の建物を数軒新築し飲食・遊興業者に賃貸するという官設公園内の民営代行から出発した。設立に当って同社が「営利を専らとせず,成る可く公衆の利便に資する」旨を謳ったように,京都市内の投資家集団が買収した嵐山三軒家や,嵐山に広大な別荘を建築しようとした内外の資産家等の行動に比し,小林らの行動は地元の振興を第一義とするものであったと評価できよう。しかし3、清滝川水力電気が創立早々に川崎・松方系統の嵐山電車軌道への身売りを余儀なくされたように,巨額の資金を固定化させがちな風間・小林派の関係企業は概して苦難の道を歩み,昭和2 年の金融恐慌で彼らが共同出資した旗艦・4、嵯峨銀行が破綻すると,嵐山焼の廃絶に象徴されるように,上記の両社を除き多くの関係企業の衰退を招いた。その後も彼らの意志を継承する子孫等により,嵐山焼の再興が幾度も企画されたり,近年でも嵐山に本格的な温泉を掘削・導入するなど地元資本による観光振興策が試みられる一方,残念ながら長い歴史を有する老舗旅館・嵐峡館が休業を余儀なくされ,大手観光資本により買収・改名されるなどの変化が見られる。大幅改装後の同館が期待通り内外貴賓の接待所の機能を果すならば創設者の意にも沿う展開であろう。

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