1 0 0 0 IR 東山殿御物

著者
木下龍也
出版者
駒澤大学文学部文化学教室
雑誌
駒沢大学文化 (ISSN:02896613)
巻号頁・発行日
vol.3, 1977-03

1 0 0 0 OA 日本の美

著者
林 良一
出版者
駒澤大学
雑誌
駒沢大学文化 (ISSN:02896613)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.73-107, 1987-03

一八五三年、日本が開国してから、ヨーロッパには、日本産の美術品や工芸品がさかんに輸入され、いわゆる「ジャポネズリーJaponaiserie(日本趣味)」の流行をみ、やがてそれはアメリカにもひろがっていった。江戸期の陶器、蒔絵の硯筥(すずりばこ)や櫛(くし)、印籠(いんろう)、牙彫りの根付(ねつけ)、青銅の鍔(つば)や矢立て、香炉、その他煙管(きせる)などの日用の小物類が、各地のコレクションや美術館に蒐集された。なかでも、何十万点という浮世絵が買いつけられていったことは、パリやニューヨークの好事家たちの、想像以上の心酔ぶりをうかがわせている。一八八六年に、日本へ来朝したアメリカの有名な画家ジョン・ラ・ファージ(John La Farge)は、日本の美術の装飾性と手際の良さを賞讃し、ことに手仕事の根付や鍔などの小品にみられる斬新な意匠や入念な仕上げは「芸術と工業との幸福な結合」と絶唱している。(久富貢・桑原住雄訳『画家東遊録(An Artist's Letters from Japan)』)また、パリを中心とした印象派や後期印象派の画家たちに、日本の浮世絵が、大きな影響をあたえたことは、よく知られている。浮世絵の単純化した形象や装飾的な明るい色調、ことに視点を自由にとった大膿な構図は、ただひたすらに、古代ギリシア以来のレアリズム美術を本領としてきた作家たちにとって、全く新しい美の世界であった。一言でいえば、これまでのヨーロッパにはかつてみられなかった印象主義的な美術に、眼をひらかれ、この「日本の美」の発見が、かれらの新しい美術を産みだすエネルギーとなったのである。
著者
久保 陽一
出版者
駒澤大学
雑誌
駒沢大学文化 (ISSN:02896613)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.21-40, 1991-03

カント哲学、とくにその理論哲学の基礎をなす超越論哲学については、周知のように、科学の基礎づけという新カント派の解釈に対して、ヴント、ハイデガー等は形而上学ないし存在論として解すべきことを説いた。だがその際科学の基礎づけないし認識論と存在論とが対立するものと見られるべきかどうかが問われるだけでなく、そもそもカントがいかなる意味で形而上学ないし存在論を説いたかも、繰り返し検討されなければならないと思われる。その場合考察の一つの手掛かりとなるのは、カントの形而上学が従来の形而上学、とりわけヴォルフ派の形而上学に対しいかなる関係にあったのか-批判か継承か修正かを明らかにすることだと思われる。この点について最近フルダは興味深い解釈を示している。フルダによると、カントは理論的認識の面でのみ従来の形而上学の要求を制限しはしたが、多くの点で従来の形而上学とりわけヴォルフ派のそれを-例えば、一般形而上学(存在論)と特殊形而上学(宇宙論、心理学、自然神学)という形而上学諸学科の分類、一般形而上学は自然学の「後」にあるのでなく「先」にあり、非感性的な認識根拠に基づいていること、総じて形而上学は「思惟から独立なものの学」だという信念等を-継承していた。更に、形而上学の範囲を実践的領域にまで拡張し、それ故カントは形而上学への要求にかんして決して「控えめ」ではなかった。だがその際一般形而上学はカントにおいてはもはや存在論ではなく、超越論哲学になったとも言う。しかしこの超越論哲学のみならず、特殊形而上学(自然の形而上学、道徳の形而上学)も結局のところ、フルダの与するヘーゲルの形而上学=論理学の見地からすれば、「本来の形而上学」ではないと批判される。このようなフルダのカント形而上学解釈のうち、(1)カントの形而上学がヴォルフ派のそれを継承しているという点は認められるものの、(2)超越論哲学は存在論ではないという見方には、必ずしも全面的に同調することはできない。むしろ超越論哲学はやはり一種の存在論であると思われる。(3)またカントの特殊形而上学が持っている理念の形而上学としての積極的意味が見失われているように思われる。(4)更に、総じてカントの形而上学は「本来の形而上学」でない、という批判に問題があるだけでなく、それによりカントとヘーゲルの関係も正しく捉えられなくなる恐れがある。以下ではこれらの点についてカントの形而上学の意味するところを考えることにしたい。