著者
稲田 利徳
出版者
岡山大学教育学部
雑誌
岡山大学教育学部研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
no.81, pp.p1-14, 1989-07

「四天王」というのは、「四大天王」の略で、元来仏教世界の中心に聳える須弥山の中腹の四方を居所とし、忉利天の主である帝釈天に仕えて、仏土を守護する、四人の外将を指す。即ち、東方の持国天王、南方の増長天王、西方の広月天王、北方の多聞天王の四人がそれである。このことから、家臣や門弟の中で、武勇、才幹、技芸などに勝れた者四人を呼称することになった。例えば、「木曽殿の御内に四天王ときこゆる今井、樋口、楯、祢井(「平家物語」巻九)、「頼光朝臣遣四天王、令打淸監之時(綱・公時・貞道・秀武)(「古事記談」巻二)などは、木曽義仲や源頼光の家臣で、武勇の誉高い四人を四天王と呼称したもの。同様に歌壇においても、和歌四天王と称される歌人がいた。
著者
稲田 利徳
出版者
岡山大学教育学部
雑誌
岡山大学教育学部研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
no.61, pp.p11-26, 1982-10

慶運は為世門の和歌四天王と称され、頓阿・浄弁・兼好などとともに、南北朝に活躍した歌僧である。二条良基はその著「近来風體」の中で「其比は頓慶兼三人何も〱も上手とはいはれし也。(中略)慶運はたけを好、物さびてちと古體にかゝりてすがた心はたらきて、みゝにたつ様に侍し也。爲定大納言は殊の外に慶運をほめられき。」(歌学大系本)と評しており、無視できない歌人である。
著者
稲田 利徳
出版者
岡山大学教育学部
雑誌
岡山大学教育学部研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
no.77, pp.p11-23, 1988-03

組題百首・部類百首の始発であるとともに、百首歌を公的な場のものとした、「堀河院御時百首和歌」(以下、「堀河百首」と略称)は、成立以後、題詠歌の模範として中世歌人に甚大な影響をおよぼしてきた。
著者
稲田 利徳
出版者
岡山大学
雑誌
研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
vol.99, pp.1-13, 1995

日本の文学史に甚大な影響を及ぼした優れた作品を残した作者の追究が盛行しているのは、しごく当然の営為であり、それ相当の意義がある。それとは逆に、ささやかな作品しか現存させ得ず、文学史のなかに埋没して希薄な存在になっている作者に、スポットを当てる試みも、マイナーな作家発掘という好事家的趣味とは別次元の意味においてなされてしかるべきである。ここに宗久という歌僧がいる。「都のつと」という紀行文学作品を残すとともに、三つの勅撰集に四首の和歌が入集する歌人でもある。彼は南北朝という疾風怒濤の時代に出家を遂げ、九州から東北地方まで仏道修行を目的とした漂泊の旅を遂行した後、京洛の歌壇にも登場する一方、今川了俊の九州鎮定の際、その使僧としても活動している。そこに南北朝の時代を生き抜いた、文人的な僧侶の生きざまが、複雑な陰翳を伴って彷彿としてくる。この論考では希少な作品や記録類によって、わずかに辿ることのできる足跡を綴り合わせながら、宗久の生の有様と作品の一端に触れてみたい。
著者
山内 峰行
出版者
岡山大学
雑誌
研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
vol.97, pp.121-131, 1994
著者
森 熊男
出版者
岡山大学教育学部
雑誌
岡山大学教育学部研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
vol.88, no.1, pp.(17-29), 1991

『史記』仲尼弟子列伝に、司馬耕、字子牛。牛多言而躁。問仁於孔子。孔子曰、仁者其言他訒。曰、其言也訒、斯可謂之仁乎。子曰、為之難、言之得無訒乎。問君子。子曰、君子不憂不懼。曰、不憂不懼、斯可謂之君子乎。曰、内省不疚、夫何憂何懼。と見える。こと司馬耕(あるいは司馬牛)に関して、司馬遷が記録したものといえば右の僅か八〇字の記述がその全てである。引用文中の「牛ハ多言ニシテ躁ナリ」なる批評が、いかなる資料に基づいて発せられたものであるかは問わぬとして、人間洞察に優れる司馬遷が、司馬耕に与えたこの人物評語は『論語』中の「司馬牛問仁」章の解釈に大きな影響を与え続けて来た。その事は本論でも触れる通り、紛れるかたなき明確な事実と言える。さて、標題に掲げた問題の「司馬牛問」で始まる章は『論語』の中に二章存している。一章は「司馬牛問仁」(顔淵篇)の章であり、他は同じく顔淵篇の「司馬牛問君子」のそれである。この小論では、これら二章に、更に、『論語』の中で司馬牛が登場しているいま一つの章、即ち、顔淵篇の「司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我独亡」の章をも加え併せた三章を分析の対象とし、それらに考察を加えることによって、司馬牛の人となりを明らかにし、そこから遡って、『論語』の「司馬牛問」の二章に対する解釈を試みる。
著者
稲田 利徳
出版者
岡山大学教育学部
雑誌
岡山大学教育学部研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
no.69, pp.p23-31, 1985-07

慶運は、南北朝期に為世門の和歌四天王と称され、頓阿・浄弁・兼好などとともに、歌壇に活躍した、歌僧である。しかし、彼の生存中に撰集された勅撰集には「風雅集」にわずかに一首入集しただけで不遇であった。心敬の「ささめごと」には「中比、頓阿、慶運法師とて歌人あり。慶運は身の程や不肖なりけむ。毎々述懐をのみせしとなり。新千載集に四首入れられ侍るとて、撰者を九拝して涙をながし喜び侍りしに、頓阿が歌数十首入りぬると聞きて、後日にわが歌を切り出だし侍るとなり。」とか、「運慶法師今はの時、年来の詠草抄物、住みなれし東山藤もとの草庵のしりへに、みな埋み捨て侍ると也。道に恨みを残し侍るも情け深き事也」といった逸話を伝えている。それかあらぬか、中世の歌人としては現存する和歌はそれほど多くない。纏まったものとしては、「慶運法印集」、「慶運百首」がある程度。前者は元来、三百首からなっていた自撰家集であったようだが現存資料では数首欠脱している。後者は、ある時期に一気に百首歌を詠じたものではなく、本人か他の人が、百首を撰歌したもののようで、両詠草間には約四十首ほどの重出歌がある。この他、慶運の和歌は、「風雅集」「新後拾遺集」「新続古今集」の各勅撰集、「続現葉集」「臨永集」「藤葉集」「松花集」などの私撰集の類、「朗詠題詩歌」「玄恵法印追善詩歌」「二条為世十三回忌品経和歌」「花十首寄書」「草庵集」「高野山金剛三昧院奉納短冊」などに散見する。また、書陵部には「浄弁竝慶運集」(四〇六・二四)なる孤本が存し、そこに六十六首の慶運の和歌が収録されているが、この歌群には、既知の慶運の和歌と一致するものが一首もなく、表題のように慶運の家集かどうか確認されていない。この詠草の検討は最後に若干行う予定だが、これを加算しても、現存する慶運の和歌は、およそ、五百首ほどで、特に多いわけではない。ここで売立目録類や古筆手鑑類を調査して、彼の自筆懐紙や短冊の集成を試みるのも意義あることと思うので、現在知り得たものを紹介しておきたい。
著者
稲田 利徳
出版者
岡山大学教育学部
雑誌
岡山大学教育学部研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
no.53, pp.p226-220, 1980-01

近江蒲生郡の豪族、蒲生智閑の家集の成立と性格に関しては、先に拙稿を公表した。そこでは、(1)現在諸本五本の解題、(2)『大日本史料九編の五』と『思文閣古書資料目録』掲載の智閑自筆の短冊や懐紙と家集との関係、(3)家集の詞書の吟味、(4)家集の性格などについて言及してみた。その結果、現存諸本には異文と称すべきものはなく、皆同一系統なること、自筆懐紙と家集との間に一致歌がみいだされること、従来、詞書には不審なものが多いとされていたが、案外、信憑性のあること、家集には智閑への権威付けと、彼の神仏への深い信仰態度を顕彰せんとする面のあることなど実証できた。拙稿公表以後、数人の方から、私がとりあげた以外の、智閑の短冊や懐紙の存在を教示いただいたが、その中で、智閑の自筆詠草を九枚も集成した貴重な新出資料一軸が発見されたので、本稿ではその軸物を翻刻、紹介し、その後に家集との関係に触れた若干の解説を加えたい。
著者
稲田 利徳
出版者
岡山大学教育学部
雑誌
岡山大学教育学部研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
vol.93, no.1, pp.1-17, 1993

この注釈は、前稿「今川了俊『道行きぶり』注釈(一)(二)(三)(四)」(研究集録、第八十九号、第九十号、第九十一号、第九十二号)に続くもので、今回をもって完結する。念のために、凡例を再録しておく。
著者
稲田 利徳
出版者
岡山大学
雑誌
研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
vol.106, pp.(1)-(6), 1997-11

一.本稿は耕雲の紀行文「耕雲紀行」の注釈である。一.底本は東京大学史料編纂所蔵本(貴41.2)で、次の方針に従って校訂本文を作成した。(1)漢字・仮名を原則として通行の字体に変え、新字体のある漢字はそれを用い、獨点、句読点を施した。(2)底本の仮名を漢字に改めた場合は、表記を改めた本文の右側に、もとの仮名を記した。漢字の訓みを()の内に示したものである。(3)仮名遣いは原文のままとし、送り仮名を補った場合は()内に記した。また歴史的仮名遣いと一致しない場合は、()を付して歴史的仮名遣いを傍記した。ただし、仮名に漢字を宛てた場合は、これを省略した。(4)反復記号は底本のままとし、踊り字の場合はもとの仮名に直し、右側に「ゝ」を付した。(5)底本の丁数などを省略し、本文も適宜改行した。(6)虫損などで判読するのに、やや支障をきたす個所は□とし、その中に推定した文字を記した所もある。(7)本文の不審な所には、(ママ)を付した。(8)全体を適当な個所で区切り、通し番号と内容に即した見出しを付した。一.注釈は〔本文〕〔語釈〕〔通釈〕〔考〕の順序で進める。一.「耕雲紀行」の翻刻を御許可くださった東京大学史料編纂所に対し、厚くお礼を申し上げます。
著者
稲田 利徳
出版者
岡山大学教育学部
雑誌
岡山大学教育学部研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
no.34, pp.1-19, 1972-08

徒前の文献調査の成果をもとにして、ここに正徹の詳細な年譜を作成する。新編、新研究などといった表題は、私の好みとするところではないが、あえて「新編」としてのは、すでに公表されている、藤原隆景氏の「正徹年譜」(国語と国文学昭6.7)と混同しないためもある。勿論、そういった形式的な問題だけでなく、「新編」としたことには、内質的にも「新」の意味合いをこめたつもりであるが、それは、次のような諸点においてである。藤原隆景氏の年譜は、長年、「草根集」を読みこんでこられただけあって、適切な処理、判断がなされているが、今から約四十年前に作成されたものである。その後「永享五年正徹詠草」(天理図書館蔵)「永享九年正徹詠草」(大東急記念文庫蔵)「月草」(陽明文庫蔵)「松下集」(国会図書館蔵)など、正徹に関連する新資料が相次いで発見されたので、年譜も、相当に拡充できる段階にいたっている。また、藤原氏は、専ら、丹鶴叢書本「草根集」に依拠されていたが、「新編」では、諸本の異文も参照した。これによって、丹鶴本の欠脱本文や誤写などが相当訂正することができる。例えば、丹鶴本では、永享四年に亡父三十回忌を行ったと指示するが、これは諸本の三十三回忌が正しく、父の死は、正徹の二十三歳ではなく、二十歳の時になるなど、その著しい例の一つである。他方、正徹の自筆本や転写奥書などで年時の判明するものや推定可能なものも追加し、「草根集」の詞書では、官職名のみで掲出されている人物も、できるだけ実名をもって記述するようにし、全体に、網羅的な年譜作成を志向した。今回は、紙面の都合で、生誕より宝徳二年まで扱い、次号(下)をもって完結する予定だある。
著者
稲田 利徳
出版者
岡山大学教育学部
雑誌
岡山大学教育学部研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
no.83, pp.p1-11, 1990-03

貞享五年(一六八八)三月、伊賀上野を出発した芭蕉は、万菊丸と童子の名に替えた杜国とともに、吉野山の花見にでかけようとして、「彌生なかば過ぐるほど、そぞろに浮き立つ心の花の、われをみちびく枝折となりて、吉野の花に思ひ立たんとするに」(笈の小文)と、その心境を吐露している。中村俊定氏は、この「心の花」が、吉野の花へ導く「枝折」となると記した芭蕉の脳裡には、西行の、よしの山こぞのしをりのみちかへてまだ見ぬかたの花をたづねん(新古今集・春上・八六」の歌が想起されていたのではないかとされた。
著者
赤木 里香子 森 弥生
出版者
岡山大学教育学部
雑誌
岡山大学教育学部研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
no.137, pp.49-57, 2008

対話型鑑賞を導入した授業によって「見る」経験を積み、美術作品に親しんできた岡山市内の公立中学校2年生を対象として、平成18年度に実施した美術家単元「国吉康雄 オリジナル美術館を創る」の実践について、報告と考察を行う。本単元は、岡山県立美術館で開催された「国吉康雄」展での鑑賞体験を、表現活動と結び付けて展開したものである。立案と実施にあたっては、学習者の立場を「見る」側から「見せる」側へ転換させ、作品収集や研究活動から展示・教育普及活動に至るまでの美術館関係者の仕事、特に展示企画(キュレーション)をモデル化し、美術館(展覧会)を創るという表現の必然と価値を見出していくことを重視した。
著者
稲田 利徳
出版者
岡山大学教育学部
雑誌
岡山大学教育学部研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
no.113, pp.7-14, 2000-03

尊経閣文庫蔵「和歌御会中殿御会部類」に収められていた新資料の「永徳二年三月二十八日内裏和歌御会」は、巻頭の五首だけの残欠であったが、その三十一首からなる完本が清水文庫に見出された。本稿は、その新資料の内容を検討して、和歌史的意義を述べるとともに、全文の翻刻を行ったものである。
著者
尾上 雅信
出版者
岡山大学教育学部
雑誌
岡山大学教育学部研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
no.135, pp.147-154, 2007

本稿では、1879年師範学校設置法の成立過程について、下院にその骨子を提案した検討委員会の報告(ポール・ベール報告)の概要と特質、ならびにその報告を受けて行なわれた下院における第一回の審議の概要と結果について考察した。ポール・ベール報告は男女の師範学校の設置を各県に義務づけるとともにその実施方策として各県の初等教育事業に関わる特別税で負担する原則を明確にするものであり、その論議過程では各師範学校に附属周学校の付設を義務づける修正案が提案されたことも強調するものであった。その後の第一回審議では、既に設置されることが決定していた女子師範学校のために、委員会提案の法案が暫定的に可決されたのであった。
著者
脇本 恭子
出版者
岡山大学教育学部
雑誌
岡山大学教育学部研究集録 (ISSN:04714008)
巻号頁・発行日
vol.133, no.1, pp.1-11, 2006

The Vicar of Wakefield, Goldsmith's only novel published in 1776, embodies a wide variety of lexical features which reflect the 18th century British hierarchical society. The present paper aims at exploring words in vogue in those days especially among 'people of fashion.' Words of historical significant in this novel, as well as in several other contemporary literary works, are examined from a philological point of view, each of their etymological origins being traced mainly with the aid of the Oxford English Dictionary. Through the discussion in this paper, we hope to illuminate some linguistic trends, along with some fashionable taste, in 18th century London.