著者
熊田 一雄
出版者
愛知学院大学
雑誌
人間文化 (ISSN:09108424)
巻号頁・発行日
no.17, pp.364-353, 2002-09

本稿の目的は,1990年代のアメリカの宗教界を席巻した保守的男性運動プロミス・キーパーズにおけるセクシュアリティ観を,クィア(変態)理論の立場から,《ペニス》をめぐる言説に焦点をあてて分析し,筆者が《ペニス・フェティシズム》と仮に名付けるものの機能を分析することにある。《ペニス・フェティシズム》とは,「恋愛フェミニスト」が男根中心主義(ペニス中心主義)と呼んで実体化していたものを,クィア理論の立場から,単なるフェティシズムの一種として発展的に読み替えたものである。ペニス・フェティシズムは,ホモソーシャル(同質社会的)な社会において,しばしばホモエロティシズム(同性愛)を隠蔽し,強制的異性愛とホモソーシャリズムを両立させる機能をもつ。このことは,プロミス・キーパーズにおける保守的なセクシュアリティ観,厳格な童貞主義・反ポルノグラフィー主義と徹底した同性愛嫌悪・中絶反対の立場に関わる《ペニス》をめぐる言説に典型的に見られる。最後に,今後残された課題として,1. プロミス・キーパーズのセクシュアリティ観の実証的調査の必要性,2.《ペニス・フェティシズム》の文化による濃淡の差異の実証的調査の必要性,について言及する。
著者
林 淳
出版者
愛知学院大学
雑誌
人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (ISSN:09108424)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.39-51, 2005-09-20

近世の陰陽道は、木場明志氏、高埜利彦氏が着手して以来、大いに進展した研究領域であろう。地方史料を使用した陰陽師の研究も、高原豊明氏、梅田千尋氏、山本義孝氏などによって着実な進展を見せている。しかしそのなかで東北は、まだ陰陽道研究の空白地である。より正確に言うと、陰陽道の空白地であったと見るべきであろう。東北の宗教史においては、全般に寺院や修験の影響が濃厚にあって、陰陽師などの宗教者が食い入る余地はなかったように思われる。しかし東北において陰陽道がまったくなかったかというと、それは正確な歴史認識とは言えない。東北の宗教史において陰陽道は、地域的にわずかに点在する形ではありながらも、わずかに入りこんでいたからである。われわれは、今までその痕跡を見落としてきただけであった。宮城県の岩出山町史編纂室が編纂した『天文暦学者 名取春仲の門人たち』は、近世の仙台藩の天文学が、どれほどの分厚い社会層によって支えられ、継承されていたかを初めて世に知らしめたものであった。それとともに土御門家の安家神道が、天文学という形で伝えられていたことを知る機会になった。これまで研究者は筆者をふくめて、近世の陰陽道を、土御門家の地方配下支配という観点から探究することが多かったが、東北の場合には、天文学として陰陽道が地域に浸透してきたようである。筆者は、渋川春海に関心を抱き、和田光俊氏とともに春海の年譜を作成したことがあった。和田氏を通じて、仙台藩の天文学史を研究し、岩出山町の名取家文書の公刊に尽力していた黒須潔氏と知り合うことができ、『天文暦学者 名取春仲の門人たち』を賜った。そして安家神道 (陰陽道) が天文学に結びついて、受容されていることを筆者は知った。それ以降、岩出山町史編纂室、東北大学図書館を訪れて、史料を閲覧することができたが、史料の内容を分析するほどには至っていない。この小論では、岩出山町の史料を参照しながら、東北地方の陰陽道をスケッチすることにしたい。
著者
熊田 一雄
出版者
愛知学院大学
雑誌
人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (ISSN:09108424)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.276-266, 2000-09-20

白光真宏会(1947-)とは,一般には「祈りによる世界平和運動」によって知られる日本の新宗教で,生長の家(1930-)の影響を強く受けている。同会は生長の家と異なり,教義上ジェンダーに関して,既成の「男らしさ/女らしさ」とは異なる多様な個性(「自分らしさ」)を容認する立場をとっている。本稿では,同会が時代に先駆けてジェンダーに関してそのような相対的に柔軟な立場を打ち出せた原因を,教祖夫妻のパーソナリティ・教祖夫人の経済的自立・時代的背景に求めて考察し分析する。最後に,1980年代以降女性の家庭から職場への社会進出という時代的潮流に対して,日本の新宗教がジェンダーに関して取りうる立場として,「生まれ変わり」によって「自分らしさ」を容認する立場がかなりの普遍性を獲得する可能性があることを示唆する。
著者
熊田 一雄
出版者
愛知学院大学
雑誌
人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (ISSN:09108424)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.398-386, 2004-09-20

現在, オウム事件や一部の異常な少年犯罪のために, 宗教教育をめぐる議論が活発である。しかし, 若い世代はそもそもどのような「生活思想」を抱いているのだろうか。この疑問に答えるために, ある仏教団体設立の宗門大学の3・4年生の学生を対象として簡単な質的アンケートを行った。彼らは, 1・2年次において宗教学入門・仏教学入門・禅学入門のうち2科目を選択必修科目として履修している。アンケートの設問は, 「なぜ人を殺してはいけないのか? 場合によっては殺してもよいと思う人は, その条件を述べよ」というもので, プライバシー厳守を約束した記名式アンケートであった。アンケート結果は, 以下の通りである。仏教の不殺生戒を用いて回答した学生はごく少数である。日本人なりの超越的なものの感じ方は, 「人間は自分一人の力で生きているのではなく, 生かされて生きている」というものであるが, この「生かされている感覚」を用いて回答したサンプルは多数あった。しかし, それに続いて多かった回答は, 「自分が殺されるのは嫌だから」というものである。「自分がされて嫌なことは人にしてはならない, だから人を殺してはいけない」という訳である。しかしこの回答には, 「自分が死にたくなったら (殺されたくなったら)」どうするのかという不安定さが感じられる。「殺したい人と殺されたい人を会わせる法的制度を作ればいい」という, こうした不安定さが直接出た回答もあった。ごく少数ながら, ニヒリズムに近い回答もあり, 僧侶の卵の中にもそうした回答が見られた。「自分が殺されるのは嫌だから」という回答には, 宗教倫理の「セラピー化」の傾向が見られる。「生かされている」感覚を直接表現した学生たちが他者と自己との関係性から回答を組み立てているのに対して, 「自分が殺されたくないから」と回答した学生たちは, まず自分の情緒的満足に目を向けて回答を組み立てているのである。この2タイプの学生の宗教倫理にはかなりの相違があり, 前者から後者への移行を「宗教倫理のセラピー化」と表現することが可能だろう。「セラピー的宗教倫理」の問題点は, アメリカの宗教知識人によって再三論じられてきたことだが, 日本の文脈でもある程度あてはまることが調査によって明らかになった。日本における従来の宗教教育をめぐる論議では, 宗教倫理の「セラピー化」の問題は, 軽視されてきたのではないか。それは, 近代の日本人の「功利的和合倫理」においては, 「我を捨てて人の和を大切にした方が結局は自分の利益にもなる」とされているから, 世界有数のキリスト教国でありセラピー大国でもあるアメリカの宗教知識人の好きなセラピー文化批判は当てはまらない, と考えられてきたからだろう。家族以外の持続的共同体を大幅に失った現在の学生の宗教道徳意識が「セラピー化」していくのは時代の必然であり, 「宗教知識教育/宗教情操教育」の二分法を越えて, そうした若者達に「生かされている」感覚を叩き込むような宗教教育こそ今こそ求められているものではないか。そうした宗教教育は, 教員と学生・学生と学生との間の人間関係の再編成を含んだものである必要があるだろう。現時点の日本では, 学校における宗教教育だけではなく, マンガ「寄生獣」や映画「バトルロワイヤル」のようなポップ・カルチャーもまたそうした役目を果たしているのではないか。

4 0 0 0 OA 日本駆逐艦記

著者
三苫 浩輔
出版者
愛知学院大学
雑誌
人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (ISSN:09108424)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.45-73, 1999-09-20