- 著者
-
二木 文明
- 出版者
- 東北文化学園大学 現代社会学部 現代社会学科
- 雑誌
- 社会学・社会福祉学研究 = Journal of Sociology and Social Work (ISSN:24368024)
- 巻号頁・発行日
- vol.第1号, pp.63-66, 2022-03-31
高村光太郎の妻・智恵子は40歳代半ばで統合失調症 ( かつての精神分裂病) を発病し、その₇年後に亡くなった。芸術家・詩人としての生涯を全うした光太郎と比べ、彼女はその病のために画業を志半ばで断念せざるをえなかった悲劇的な人物として詩集『智恵子抄』や評伝、あるいは映画や舞台で描かれ、また、病跡学の方面でも幾つかの報告がなされている。しかし、智恵子は果たして統合失調症だったのだろうか。これまで筆者はこの点に関して諸資料を検討してきたが、現在の時点では、彼女が「自閉スペクトラム症(ASD)」の心性を持っており、このASD の心性を背景として、統合失調症ではなく、症候群という意味でのカタトニア( 緊張病) が現れたのではないかと考えている。本文に入る前に生活史を簡単に記しておくと、高村智恵子は明治19年(1886) ₅月20日、現在の福島県二本松市油井に生まれた。生家は酒造業を営み、智恵子は同胞₈人中の長子だった。学業成績は優秀で、福島高等女学校を経て、日本女子大学に入学した。在学中、女性雑誌『青鞜』の表紙絵を描いた。卒業後は油絵の道に進み、大正₂年、高村光太郎と婚約し共同生活を始めた。昭和₄年に生家の長沼家が破産した頃から精神的変調をきたし、自殺未遂の後、同11年、智恵子は南品川のゼームス坂病院に入院。診断は統合失調症だった。入院中に紙絵を作り始め、それが昭和13年の死去まで続いた。なお、死因は粟粒性結核であった。