著者
桑野 栄治
出版者
久留米大学文学部
雑誌
久留米大学文学部紀要 国際文化学科編 (ISSN:09188983)
巻号頁・発行日
no.25, pp.51-78, 2008-03

本稿は朝鮮中宗代の前半期に時期を絞り、朝鮮と明とのあいだに生じた宗系弁誣問題をめぐる外交交渉の実相について、朝中の官撰史料である『朝鮮王朝実録』と『明実録』を中心に整理・分析したものである。宗系弁誣問題とは、太祖李成桂が政敵李仁任の子であり四人の高麗国王を殺害したとする明側の記録の修正を要求した、朝鮮前期の一大外交紛争である。朝鮮国王の正統性に関わるこの問題は太宗四年にいったん解決したかにみえたが、のち中宗一三年四月に朝鮮使節が『大明会典』を明から購入したことによって再燃した。皇帝御製の序文にはじまる『大明会典』の修正は容易ではないとの事情を予測しつつも、朝鮮政府はこの年七月に宗系弁誣奏請使として正使南衰・副使李〓・書状官韓忠の三使を帝都北京に向けて派遣した。あいにく正徳帝が行幸中であっため外交交渉は難航したが、奏請使一行はようやく礼部の咨文を獲得して中宗一四年四月に王都漢城に戻る。ところが、正徳帝の勅書は宗系改正を許可するのみで、王氏殺害の件には言及がなかったことから、再度奏請使を派遣すべきか、あるいは謝恩使を派遣すべきかで朝鮮政府の論議は紛糾した。そのうえ臺諫は奏請使の外交交渉上の失態を弾劾し、その三使も辞職を願い出るにいたる。少壮学者趙光祖は明確な判断を避けた中宗を諫めることもあったが、三使の辞職は取り下げられ、ひとまず謝恩使を明に派遣することによってこの問題は収束した。ただし、この年一一月に己卯士禍が発生するや李〓と韓忠は失脚し、南袞は左議政に昇進して明暗を分けた。正徳帝の在位中に『大明会典』が改訂されることはついになかった。謝恩使は帰国後、当時の明政府では言論によって皇帝権を抑制する機能が麻痺している、と報告している。こうした政治状況のなかで朝鮮使節が『大明会典』の修正を要請したとしても、礼部が正徳帝の裁可を仰ぎ、さらにこれを実行に移すには困難であったに相違ない。以後、この対明外交交渉は朝鮮政府にとって最大の懸案事項となる。