- 著者
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桑野 栄治
- 出版者
- 久留米大学
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 2001
本研究は、対象時期を14世紀後半の高麗(918〜1392年)末期よりほぼ15世紀全般に相当する朝鮮王朝(李朝。1392〜1897年)初期までの約150年間とし、正朝(元旦)・冬至と聖節(明の皇帝の誕生日)に朝鮮の王都漢城(現ソウル)で実施された対明遥拝儀礼(望闕礼という)の制度的変遷とその実態を『高麗史』『朝鮮王朝実録』など官撰史料を中心に追究したものである。その成果の概要は以下の通りである。1 高麗国王が明の皇帝を遥拝する儀礼は、明の太祖洪武帝の即位から4年を経た恭愍王21年(1372)の冬至に王都開城で初めて実施された。これこそ朝鮮初期の歴代国王が実施した望闕礼の原型である。朝鮮国王はみずからが北京に赴いて明の皇帝に拝謁することに代え、朝鮮の王宮にて王世子・文武官僚とともに望闕礼を毎年実施した。この儀礼は朝鮮国王にとっては明中心の冊封体制下における外交儀礼であり、君臣間の儀礼的関係を官僚の前で示す装置としても機能した。2 ところが、クーデターによって王位を簒奪した世祖は、治世年間の後半期になると望闕礼を放棄した。その一方で世祖は中国の皇帝のみが行いうる祭天儀礼(圜丘壇祭祀という)を王都の南郊で実施しており、朝鮮初期の儒者官僚の対明観と皇帝観を覆す異例の行動であった。冊封体制に対する挑戦ともいえる。3 朝鮮国王が王宮で望闕礼を終了すると、ひきつづぎ朝賀礼と会礼宴が実施された。その会場には受職女真人をはじめ日本・琉球からも多様な使節が参席した。彼らはいわば「朝貢分子」であり、その代表格が朝鮮王朝の諸侯を自称する対馬宗氏である。朝鮮政府が北方の女真人を厚遇した背景には辺境の防備という現実的な軍事問題があり、南方の倭窟対策として倭人を撫接する外交政策と相通ずる。