著者
河角 龍典
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2003年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.12, 2003 (Released:2003-12-24)

本研究の目的は、平城京の地形環境を復原し、その復原成果と平城京内部の土地利用との関係から、平城京の土地利用規定要因を解明することにある。本研究では、ジオアーケオロジー(geoarchaeology)の方法を適用し、考古学や歴史学の研究成果に対応する精度の地形環境復原を行い、平城京の土地利用との対比を行った。平城京を流下する佐保川流域の地形環境は、奈良時代以降も著しく変化しており、奈良時代の地形環境は現在と異なる地形環境であることが判明した。佐保川流域平野における歴史時代の地形環境変化は、奈良時代以降4つの地形環境ステージに区分できた。表層地質調査からみた奈良時代の平城京は、洪水氾濫の少ない地形環境であった。また、史料からみても奈良時代の水害は、728(神亀5)年の1回にとどまっている。平城京の地形環境復原図と土地利用復原図とを対比した結果、平城京内部の土地利用は、地形環境と密接に関係することが明らかになった。平城京内部の土地利用は、地形の配列に対して決して無秩序ではなく、土地条件を考慮した上で配置されていたと推測できる。平城京の土地利用規定要因の中には、社会環境に加えて、地形環境も含まれていたのである。平城京における市街地や貴族の邸宅は、地下水位が高く、かつ洪水の危険性もある、現在の土地条件評価基準では宅地として不適当な地形に立地する傾向が認められた。これは水を得やすい土地を選択した結果であり、井戸による地下水の取水が容易である土地を選択した結果であると考えられる。こうした土地利用パターンの背景には、集水域面積が狭小で、洪水に対しての安全性は高いが、その一方で水資源に乏しいという平城京固有の立地特性がある。こうしたなかで、平城京内部の土地利用は洪水発生区域には左右されず、生活用水の取水条件あるいは地盤条件が、土地利用を規定する要因となったと考えられる。
著者
相澤 亮太郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2003年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.20, 2003 (Released:2003-12-24)

かつて人文主義地理学が扱ってきた主体の内面性や情緒性は_丸1_場所本質主義的である_丸2_場所のダイナミズムを捉えられない_丸3_主体の知覚を超えた範囲からの影響を扱いきれない、などの批判を受けてきた。だが、たとえば地域対立やナショナリズム、またはまちづくりにおける住民参加の問題などを考えれば、主体と場所の情緒的な関係であっても無視することはできない。それらの問題を乗り越えるために、本研究では地蔵を事例としながら、記憶を媒介として場所が再生産される過程を描き出すことを目的とする。 1995年の阪神大震災以後は、地蔵が震災復興における象徴的な存在としてメディアにしばしば取り上げられてきた。都市インフラや住環境などの物的環境の復興ではなく、文化的・精神的なものの復興を象徴する存在として、地蔵は震災後に「再発見」された。地域住民にとって地蔵の意味は極めて多様であるが、地蔵の由緒が不明なものが多いにも関わらず祭祀が継続されているのは、特筆すべき点である。震災犠牲者の慰霊や現代的な御利益など、新たな意味や記憶が付与されながら、地蔵祭祀は継続されている。地蔵祭祀は廃れゆく伝統習俗であるとは一概に言えない。ただし当初の祭祀者を失った地蔵は、像そのものが残存しても、固有の記憶は残らない。地蔵をめぐる祭祀組織や所有形態、設置場所等が柔軟に変化しながらも、地蔵祭祀は継続されている。 地蔵は、場所と記憶の再生産装置として機能する側面を有しているが、地蔵そのものだけを取り上げて、安易に場所や記憶の再生産装置であると位置づけることはできない。地蔵祭祀は、場所の変化や社会状況に合わせて変化していく。場所が社会的構築物であるならば、地蔵も社会的に構築/再構築される存在であると考えられる。
著者
福本 拓
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2003年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.11, 2003 (Released:2003-12-24)

昨今の世界的な移民の急増は,諸外国の,特に非合法な手段による入国者(=「密入国者」)・滞在者に対して,右翼勢力の台頭といった人種主義や移民排斥等の社会問題を顕在化させた。日本でも,いわゆる「ニューカマー」の増加に伴い,同種の事態が見られるようになってきた。しかし日本の場合,「密入国者」を巡る問題は,近年の来日者のみならず,戦前の植民地期から戦後に至る動向の影響を多大に受けている。それゆえ,戦前・戦後を通じた「密入国者」に対する政策・認識の変遷を,政治・経済・社会情勢を踏まえて歴史的な観点から分析する視点は不可欠といえる。 戦前の「密入国者」は,朝鮮の所轄警察署が発行する「渡航証明書」なしの入国者を指す。彼らを管理したのは内務省で,その「密入国者」に対する認識は,国内の失業問題といった経済的問題の悪化を憂慮するものと,治安維持上の問題を懸念するものとに大別される。これに対し,占領期には正規帰還を除く全ての渡航者が「密入国者」とみなされた。この時期の国内の朝鮮人は法的地位が定まっておらず,「密入国者」に関しても,その対応にはかなりの紆余曲折があった。ただし戦前と異なり,「密入国者」を経済的問題と関連させる認識は見られなかった。 この占領期の混乱状況における政策決定過程を明瞭化することが,「密入国者」への認識や政策の変遷を辿る上で重要である。その際,地方における「密入国者」をめぐる議論に着目したい。というのも,彼らを含む在日朝鮮人関連の諸問題への関心は地域的に偏ったものであったからである。そこで,地方の動向と日本政府・占領政府の「密入国者」管理政策の関連に特に焦点を当てて,その背景にあった政治・社会情勢を踏まえながら「密入国者」に対する政策・認識の変化を考察する。
著者
中島 茂
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2003年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.3, 2003 (Released:2003-12-24)

明治大正期日本の近代化過程に焦点を当て、都市部と農村部、西日本と東日本といったマクロあるいはメソスケールの人口構成や工業構成の差異に注目しながら、そうした日本全体の歴史的背景をもった地域特性の中で、大阪における工業化と工業地域の形成がどのような特性と意味を有したのかを考察する。工業地域が大小さまざまな規模からなる工場の集積とその相互の機能連関から成り立つとして、その業種的特性や空間的展開性と工場経営を担い、働いた人びとの諸特性が、工業地域形成に大きく影響しているはずである。日本の近代工業化の地理的諸相を普遍化してみる試みの一端として、当時の工業最先進地であった大阪を取り上げ、おもに泉北農村部に展開した綿織物工業と大阪市とその周辺部の都市化地域に集積した機械金属工業を軸に、その地理的特性を検討する。それは現代の日本工業の地域構造を理解する上でも重要な課題と考えられるからである。