著者
梶浦 善次 Schacht R
出版者
北海道女子短期大学
雑誌
北海道女子短期大学研究紀要 = Bulletin of Hokkaido Women's Junior College (ISSN:02890518)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.95-121, 1979

へーゲルの思惟の方向は,次のように要約されるであろう。自由であることは,自己決定的であることである。実際それは自己意識的に自己決定することである。ある存在が,その決定を自分自身のものとして意識するのでなければ,その存在が自由であるというのは適切で、ないだろうからである。さらに自由であることは, 自己の行動の点だけではなく,多様な仕方での行動を選択するという点で自己決定的で、あるのである。自己決定は,他人からの強制が無いということだけでなく,自己に外的な要因の選択や決定から独立することをも内包している。人間の自我を語るとき,そこで志向されているのは,人間の単に身体的または感覚的性質だけではなく,むしろその真のあるいは本質的な自我であり,このものは精神として把握されねばならない。次に精神は,単に身体的または感覚的存在に結びつく感情や衝動,傾向, 欲望などの視点からではなく,理性的思惟の視点で把握されねばならない。二つの種類の現象は,ともに法則によって支配され, そして人間的生の一切の現象は,それらいずれかの法則によって支配されている。ところで理性の法則は,感覚的存在を支配する法則に従属せず,またそれによって決定されもしない。理性の法則は,理性そのものの本性によって決定される体系を形成する。自分の選択と決定を,従ってまた彼の行為を理性の法則に一致して決定する人は,自分の衝動と傾向に応じて決定する人とは, ちがった仕方で自己決定をするのである。本質的に理性的な存在は,その本質的な理性的本性の法則に一致して自分を支配するときにのみ自己決定的で、あり,そしてこのことによって,彼自身の本質的本性の法則でない法則への従属から解放されるのである。ところで人聞が本質的に理性的であると言っても,それだけでは個人はひとりでその本質的理性的本性の法則に従って自分自身を支配できるという保証はない(たとえそうしたいと欲しでもである)。人は理性に従って思惟し行動するようになる能力をもっているが,すくなくとも初めには,自然的欲求や傾向によって動かされ,また決定する性向すなわち人格ーその性格は感覚的性質の法則を操作する機能であるーである単なる特殊的個人として存在する。彼の行動の目的や目標が主観的に決定される限り, それらはその個別的な人格以外の源をもつことはできない。しかもこの個別的人格は,決定論者が正しく観察しているように,決して自己決定的ではない。これらの目的と目標が良心の命令のように見え,あるいは一般化されて合理性の外観が与えられる時でも,上の事情は同じである。個人は,自己の行為の決定に対して, 彼の個別的な衝動や傾向に影響きれない客観的な基礎を見出すときにのみ非自己決定的個別性という状況を脱することができるのである。ところで,このような客観的基礎は,明らかに主観的にすなわち自己自身に固定させることはできない。なぜなら,このように自己自身の内においてのみ決定されたことは,必要とされる客観性をうること,すなわち主観的影響から独立することはできないからである。かかる性格(客観性)をもつものは,ただ一つ存在するだけであり,それが客観的に存在する法と制度をもっ人倫的秩序で、あるのである。もちろん,これらの法と制度に一致して決定される行為が,それら(法と制度)の客観性にもかかわらず,個人自身の本性に外的なものであるならば,自由な行為であるとは全く考えられえないだろう。しかし真正に組織された国家においては,法や制度は具体的に実現された理性そのものに外ならない。そしてかかるものとして,それらは個人自身の本性にとって,全く外的なものではない。反対に,それらは,その点から個人の本質的に理性的本性が問屋されるべき理性的構造そのものを,客観的に具現しているのである。それゆえ客観的な法や制度に従って行為を決定するという点で, 個人は自然の網から脱すると同時に彼の行為を自分自身の本質的本性の法則と一致させる。すなわち彼に可能な唯一の仕方で,理性的な自己決定を達成するのである。自由であることは自己決定的であるごとである。この点で,またこの点でのみ(すなわち自由であることでのみ),人は真に自己決定をするのであり,またそれゆえに,この点でのみ(すなわち自己決定であることでのみ),人は真に自由であるのである。もちろん論理的には, 真の自由は適正に組織された国家が,実存する現実として出現するとともに可能で、ある,ということになるのであるが,これこそへーゲルが明白に断言する命題である。そしてこれに照してのみ,人は,彼がなぜ国家をこのように重視したか,という理由を理解することができるのである。ヘーゲルの自由の理解の基礎となっているかなり多くの主張ー最少限に言っても,特に人間と国家を本質的に理性的なものとし,またそれ以上にその本質的な理性的本性の点で対応するものとして特色づけるごとは問題となるように見える。だが私には, それが問題となること自体が疑問である。へーゲルが書いてから,人間の本性についての非合理主義的説明が多数現われたし,また人間の本性に関するすべての議論は,近年不評をこうむった。しかし人聞が理性的に思惟する能力を獲得できることはほとんど否定されえないし,また理性的思惟は人間の活動の中心であり,それとの関連において真正な自己決定を語ることができるということは,多分に正しく,またきわめて重要でもあるのである。さらに,へーゲルの国家理論の形而上学的支柱は曖昧であり,あるいは問題的でもある。そして彼は近代国家の合理性を誇張しているとも考えられる。しかもなお敢えて私が言いたいのは, 彼が語る法と制度は,行為を自然的衝動および傾向の水準より高め,かっそれら法や制度が存在せぬ場合よりは,行為をより理性的に決定する基礎を提供するし,すくなくとも原則的にそれを提供することができる, ということである。これらの事柄に関しヘーゲルの言説に含まれる真理の要素がーそれらが真理であるとしてであるが一自由の内容についての彼の理解そのままか,あるいは何らかの修正された形であれーの妥当性を確立するのに十分であるかどうかは,確かに問題とされうるであろう。しかし否定的な答は,決して明確には示されない,と私には思われるのである。