- 著者
-
卜田 隆嗣
- 出版者
- 島根大学教育学部
- 雑誌
- 島根大学教育学部紀要 教育科学 (ISSN:0287251X)
- 巻号頁・発行日
- vol.23, no.1, pp.p9-15, 1989-07
このたび学習指導要領の改訂が決まった。音楽科に関してもさまざまな変更がみられるが,とりわけ教材面で,民族音楽を取り上げることになった点が注目される。そこでは,これまで常にそうであったように,音楽の「学習」とは何か,音楽を「学ぶ」というのはいったいどういうことなのか,という本質的な問題は棚上げにされたままである。たんに教材の内容を拡張すれば,それで音楽教育が改善される,と信じて疑わないような姿勢がそこに垣問みえる。そもそも音楽の「学習」なるものが成立し得るのだろうか。もし成立し得るとするならば,それはどのような視点からであろうか。 音楽を「学ぶ」と言った場合,当然のことながら,誰が,何を,いかにして学ぶのか,が問題となるはずである。誰が,という問題は,とりあえずここでは問わないでおこう。基本的には,いかなる社会であってもその社会の成員はすべて,なんらかの形で音に関わるに違いないからである。それでは,「音楽の学習」とは,何をいかにして学ぶことなのだろうか。何を学ぶか,という問いは,一見して自明な問いのように思われるが,実際にはこの部分を暖昧なままにしている場合が多い。 たとえば,われわれが数学を学ぶのは,たんに四則演算の能力を獲得するとか,ケーレー・ハミルトンの公式を使いこなせるようになるとかいった目的のためだけではない。こうしたことは,枝葉末節とまでは言えないにしても,少なくとも最終目標ではない。むしろ学ぶべきことは,この人間が積み上げてきた学問の体系そのものであり,数学の体系をとおして人間がどのように世界をとらえてきたかを理解することなのである1)。同様に,音楽についても,視唱ができるようになるとか,移調ができるようになるとかいった能力・技術を習得することは最終目標ではない。音表現という人間の営みをとおして,どのように世界をとらえ,解釈しているかを知ることが重要なのである。したがって,いかに「学ぷ」か,についても,たんに技術的な習得のレベルを超えて,どう世界をとらえていくのか,という点が問題にされなければならない。 このようなものとしての音表現のあり方を解きあかそうとするのが音楽学の一つの役割である以上,音楽教育学は音楽学の中に合まれる,あるいはかなりの部分が音楽学と重なりあうことになる。この点をもう少しはっきりさせるために有効なのは,音楽学の領域でどのように研究対象をとらえてきたかをふりかえることである。とりわけ,当初から音表現に関わる人間の営みを広く全体的にとらえる方向に向かってきた民族音楽学の分野は,重要である。特に,1960年代にこの分野で導入された行動科学的視点は,音楽教育学に深い関連をもつものである(徳丸1970a:126参照)。この時期を代表するアラン・P・メリアム(MERRIAM)の主著『音楽人類学』も,行動主義的な立場,あるいは行動主義の音楽研究への適用がその大きな特色となっている。以下では,彼の著作にみられる,音楽研究のためのモデルを考察し,そこで学習がどのように位置づけられているかを検討することをとおして,音楽の学習とは何か,を考えたい。