- 著者
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熊田 一雄
- 出版者
- 愛知学院大学
- 雑誌
- 愛知学院大学文学部紀要 (ISSN:02858940)
- 巻号頁・発行日
- no.31, pp.1-9, 2001
現在,オウム事件や異常な少年犯罪の続発などのために,宗教教育をめぐる議論が活発である。しかし,現行の宗教教育は若い世代に対して実効性をあげているのだろうか?この疑問に答えるためにも,愛知学院大学の学生を対象として簡単な質的アンケートを行った。同大学は曹洞宗の宗門大学であり,調査対象となった学生達は,宗教学科の3・4年生であり,1・2年次に宗教学の講義を必修科目として受講している。アンケートの設問は,「なぜ人を殺してはいけないのか? 場合によっては殺してもよいと思う人は,その条件を述べよj というもので,プライバシー厳守を約束した記名式アンケートであった。アンケート結果は,以下の通り七ある。仏教の殺生戒を用いて回答した学生はごく少数である。日本人なりの超越的なものの感じ方は,「人間は自分一人の力で生きているのではなぐ,生かされて生きている」というものであるが,この「生かされている感覚」を用いて回答したサンプルは多数あった。しかし,それに匹敵する程に多かった回答は,「自分が殺されるのは嫌だから」というものである。「自分がされて嫌なことは人にしてはならない,だから人を殺してはいけない」という訳である。しかしこの回答には,「自分が死にたくなったら(殺されたくなったら)」どうするのかという不安定さが感じられる。ごく少数ながら,二ヒリズムに近い回答もあった。「自分が殺されるのは嫌だから」という回答には,宗教道徳意識の「セラピー化」の傾向が見られる。このアンケート結果から,現行の宗教教育はかなり形骸化しているのではないか,という疑問が生じる。家族以外の持続的共同体を大幅に失った現在の学生の宗教道徳意識が「セラピー化」していくのは時代の必然であり,そうした若者達に「生かされている」感覚を叩き込むような宗教教育こそ今こそ求められているものではないか。現在の日本では,学校教育ではなく一部のサブカルチャーがそうした役目を果たしているのではないか。