著者
堀田 治
出版者
法政大学イノベーション・マネジメント研究センター
雑誌
法政大学イノベーション・マネジメント研究センター ワーキングペーパーシリーズ = Working paper series
巻号頁・発行日
vol.142, pp.1-21, 2013-05-20

本研究ではこれまで、アート消費の中でも極めて高関与なバレエ、オペラの観客を事例に、通常の高関与とは異質の「超高関与」の領域があるという仮定の下に、関与と知識の長期的な相互作用を示す枠組み「アートの消費者 関与-知識モデル」を提示し、検証をしてきた(堀田 2011; 2012)。本研究の目的と意義は次の2点である。第一に、アート分野での現象を足掛かりに認知、感情から関与、知識につながる流れをこの枠組みで捉え、超高関与のメカニズムを解明し関与概念を拡大する。「超高関与」の実体は、製品知識、情動や主観的経験、自己知識、手続き記憶、他分野の知識など様々な内部情報が結合された結果としての、頑健で永続的な「精緻化された関与」であることを捉え、諸概念を統一的に説明する。これにより、消費者の状態を示す媒介変数としての関与ではなく、知識、満足度、ロイヤルティを包含したマーケティング成果目標として関与を位置づけることが可能となり、新たなマーケティング戦略をもたらすものである。第二に、ポピュラリティが低く、構造的に「需要が限られた消費分野」であるアート市場において、潜在顧客のセグメントを行い、顧客層を拡大する要因を探り、新規顧客開拓の戦略を見据える。本稿では、関与概念を掘り下げる「超高関与になるメカニズム~感情・知識の精緻化」、新規顧客拡大を見据えての「アート消費者のセグメント~潜在顧客と拒否領域」の2つの概念モデルの提案を行う。
著者
山崎 泰央
出版者
法政大学イノベーション・マネジメント研究センター
雑誌
法政大学イノベーション・マネジメント研究センター ワーキングペーパーシリーズ = Working paper series
巻号頁・発行日
vol.24, pp.1-26, 2006-11-10

パーソナルコンピュータの歴史は、1971(昭和 46)年インテルによって世界初のマクロプロセッサ(MPU)「4004」が発表されたときから始まる。電卓用に開発された4ビット処理の「4004」は数字しか扱えなかったが、翌年、アルファベットも扱える端末機用 8ビット MPU「8008」が発表された。1974年、インテルは処理速度を格段に早めた汎用の 8ビット MPU「8080」を発売、75 年にはこれを組み込んだ世界初のマイコンキット「アルテア 8800」が米 MITS 社から発売され、全米にマイコンホビーブームが生じた。このアルテアに対してプログラミング言語「BASIC」を移植し、ソフトウェア・ビジネスを立ち上げたのが、マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツとポール・アレンだった。1977年、アップル・コンピュータの「ApplⅡ」の他、コモドールやタンディ、日本のソードがほぼ同時期に、個人による机上利用が可能なデザインのマイコン=パーソナルコンピュータを発表した。パソコン時代の幕開けである。そして 1983 年、IBM は 16 ビットパソコン「IBM The PC」でパソコン市場に参入する。パソコンでは後発であった IBM は、開発期間を短縮するため、オープンアーキテクチャ構造を採用した。そのため、IBM のシェア拡大と同時に互換機市場も拡大していった。このとき、IBM-PC にインテルの MPU とマイクロソフトの OS(基本ソフト)が採用されていたことから、いわゆる「ウィンテル」がデファクトスタンダート(事実上の標準)の地位を獲得していったのである。 現在では「ウィンテル」の商業的成功ばかりが喧伝されているが、パソコン黎明期には実に多くの有名・無名の人々がパソコンの発展に貢献してきた。もちろん日本人の活躍も例外ではない。8ビットパソコンを第一世代、16 ビットパソコンを第二世代、そして現在の主流である 32 ビットパソコンを第三世代とすると、日本人はパソコン第0世代の MPU 開発から第二世代まで大きな足跡を残している。MPU「4004」のアイデアは日本の小さな電卓会社ビジコンが生みだし、その開発には日本人技術者の嶋正利が関わっている。アルテアを開発したエド・ロバーツよりも早く MPU を使って商用マイコンを作ったのは椎名堯慶が率いていたソードであった。また 16 ビットパソコン OS のデファクトスタンダートである MS-DOS はアスキーの西和彦がビル・ゲイツに決断を促したことによって開発が始まっている。その他、日米を含めて多くの人々やベンチャー・ビジネスの活躍が、パソコンを含む現在のIT(情報技術)産業の発展を支えてきたのである。 ここでは、パソコン黎明期に日本のパソコン産業をリードしながら、経営の失敗によって歴史に埋もれていったソードの椎名堯慶(しいな たかよし)と、同じく黎明期にパソコンの「天才」と呼ばれ、表舞台で活躍したアスキーの西和彦(にし かずひこ)を取り上げる。以下、彼らがパソコンの将来像をどのように描き、それを実現するためにどのような主体的活動を行ったのか検討していく。