著者
宋 琦 Qi SONG ソン チー
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.47-68, 2018-03-31

松宮観山は江戸期に神儒仏三教思想を論じた一人である。彼は、兵学、儒学、測量学、易学、和歌、唐音などの複数の分野に精通していた思想家で、『三教要論』、『続三教要論』などの自著において、神儒仏三教思想を唱えた。本論文は、松宮観山の思想における「道」と「教」についての分析を通して、彼の神儒仏三教思想の成立原理を検討したものである。最初に、松宮観山の生涯、彼の提起した神儒仏三教思想及びそれにかかわる先行研究を概観する。次に、松宮観山の神儒仏三教思想における「道」と「教」との関わりについて論じる。『三教要論』の冒頭には「教えとは何ぞ、道を脩る也」とあり、この内容の出典は『中庸』の「天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂教」と思われる。これをみれば、『中庸』の思想の影響を受けた観山は、「天→性→道→教」の順で「教」が最終的に生成すると主張した。また、観山の神儒仏三教思想は、「道」と「教」との関連を重視し、「教」は自然の「道」によって決定される。これを踏まえて、松宮観山の神儒仏三教思想の成立原理を分析していく。松宮観山は、荻生徂徠の「聖人の道」への執着を批判し、また、本居宣長が「大和心」を探求することを否定する。さらに、観山の独自的な神儒仏三教思想の構造を分析した。彼は「十二支」という概念の活用で、当時のインド、中国、日本の三者を比較し、日本の活力或いは生命力を誇りながら、神道の優位性を強調する。また易学の「天地人三才」の原理、すなわち宇宙間に存在する万物を統合する視点から、神・儒・仏という三つの教えを併用した。このように、神道を中心として、儒仏の二教を補佐とする神儒仏三教思想が構築された。時代背景から見れば、中国では「明清交替」は本土や周辺に大きな影響を与えた。松宮観山の時代、「夷狄」であった満州人が政権を握っていた。同じく「夷狄」と見なされた朝鮮や日本などの周辺諸国において、国家意識や民族意識が次第に強くなっていた。観山においては、日本の「道」の独自性を強調するのが、それにあたると思われる。しかし、儒学を基盤とする中華文明から離れることができず、また日本においては、仏教の広範な社会的基礎があるので、このような時代背景からみれば、すでに日本の独自性に焦点を当てた観山は、神道だけを強調するのではなく、儒学と仏教を活用するように、保守的な態度をもって神儒仏三教思想を提起した。This essay is an attempt to analyze the structure of Matsumiya Kanzan's Shintoist Theory of Three Teachings, by studying the role of Tou (way or nature) and Kyou (teaching) in his theory.First, we take a look at Matsumiya's life, his Theory of Three Teachings, and former research conducted on him. One of the proponents of a Three Teachings approach, Matsumiya lived in the Edo era and was an expert in military matters, Confucianism, surveying, poetry and the Chinese language. He advocated his main ideas in his book Sankyouyouron ('The Basis of the Theory of Three Teachings'). Second, we focus on the connection between Tou and Kyou in Matsumiya's ideology. In the beginning of The Basis of the Theory of Three Teachings he wrote, "What is the definition of Tou? It is the practice of Kyou." The following sentence is taken from the Chinese classic Zhongyong (The Doctrine of Mean, trans. James Legge): "What heaven has conferred is called the Nature (Tou), an accordance with this Nature is the Path of duty (Sei), the regulation of this path is called Instruction (Kyou)." It seems that it was the influence of the Zhongyong that led Matsumiya to place Kyou last of his Three Teachings, in the order Tou-Sei-Kyou. Meanwhile, emphasizing the connection between Tou and Kyou, Matsumiya declared Kyou to be determined by Tou, which is based on the law of nature. This is the fundamental principle of his Theory of Three Teachings.Matsumiya criticized Ogyu Sorai's theory for its insistence on defining Tou as the law of ancient sages, and also he disagreed with Motoori Norinaga's Japan-centralist approach. Matsumiya applied the 12 earthly branch conception in comparing India, China and Japan, asserting the vitality of Japan, and emphasizing the excellence of Shintoism. He also applied the concept of the Three Geniuses (Heaven, Earth and Men), in order to advocate a position of everything being one when seen holistically, in order to support his combining teachings from different sources.Thus, his construction of his Theory of the Three Teachings, which revolved mainly around Shintoism but also contained Confucian and Buddhist elements, was finally completed. In the period that Matsumiya lived, China was ruled by Qing Dynasty, formed of Manchus, who the people of the time termed "savages." The fact that such "savages" had become the leaders of the East Asian world had great influence on China's neighbouring nations, with Korea and Japan's national consciousness gradually increased through their hatred of "savages." Matsumiya's emphasis on a Japanese form of Tou, different from the Chinese Tao, may be a product of increased national consciousness. However, Japan at this time had not separated itself from Confucianism-based Chinese culture, and Buddhism served as the basis of much of Japanese society, which means we can also see Matsumiya's Theory of Three Teachings as motivated by a form of conservatism.
著者
李 忠澔 Chung-Ho LEE
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.27-42, 2012-03-30

『太平記』に登場する正成は、智仁勇の三徳を兼備した武将で、天皇のために命を捧げた英雄として広く知られているが、近世期以降はその教訓的な側面が正成伝説の普及を支える肝要な要素となっていく。 『太平記』において正行の母は、父正成の戦死を悲しみ自ら命を絶とうとする正行を諌め、正成の遺訓の意味を再度教え諭す。このエピソードが端緒となり、その後正成の妻は良妻賢母として顕彰されていくことになる。 一方、近世前期に流行した「太平記読み」のテクストであった『理尽鈔』は、兵学中心の合戦談という性格から、正成の妻が正行に父の遺訓を教え諭す場面を省略し、その代わりに正成の首をめぐって足利直義と楠家の家臣間で繰り広げられた駆け引きに関するエピソードを挿入している。これは、合戦談の中では女性の存在が副次的にしか認識されないことから、『太平記』における正成の妻の情緒性豊かな描写が省略された結果と見られる。 このような『理尽鈔』における扱いとは別に、正成の妻は近世の早い時期から啓蒙目的の女訓書に登場している。仮名草子女訓書『本朝女鑑』では、『太平記』原典の正成の妻に関するエピソードが簡略な形で引かれており教訓を主眼とする女訓書の性質に即して、母として息子の誤りを戒める内容が中心になっている。 さらに、時代浄瑠璃においてはそれ以前とはやや異なる正成の妻のイメージが形成される。近松門左衛門の『吉野都女楠』において、正成の妻「菊水」は従来と同様に夫の遺志を継ぎ、息子を訓戒する良妻賢母として登場するが、その上に大力という性質をも兼ね備えた逞しい女性として描かれる。ここでは、男性のために自己を犠牲にする時代浄瑠璃の典型的な女性とは異なる、戦乱という苦難を生き抜く強い女性像が正成の妻に付与されていると言える。 一方、西沢一風・田中千柳の『南北軍問答』においては新しい趣向が設定され、正成の妻は女色に溺れる正行を訓戒する。正行の誤った行動を戒めるという点では、『太平記』と軌を一にするものの、正行が好色者として描かれる点に加えて、「泣男」杉本佐兵衛が正成の妻に代わって訓戒の内容を伝えるという点が新しい構想となっている。 このように、正成の妻は『太平記』から時代浄瑠璃に至るまで、良妻賢母としてのイメージを保ちながらも、その上に新たな趣向を取り入れつつ受容されていくことになる。
著者
吉本 弥生 Yayoi YOSHIMOTO ヨシモト ヤヨイ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.9, 2013-03-28

一九〇〇年頃、日本の思想界では人格主義が大きな影響を与えていた。日本の人格主義は、感情移入美学との関連があり、その影響を強く受けていたのが阿部次郎(一八八三~一九五九)であった。同時に武者小路実篤(一八八五~一九七六)にもその傾向が見られ、両者の思想は互いに似たところがあった。 そこで、当時の社会思想について阿部と似た意識のあった武者小路実篤の「理想的社会」(『生長する星の群』一九二三年一月~八月)を取り上げ、阿部の『人格主義』(岩波書店、一九二二年)と比較することで、両者の相違と同時代受容を検証した。これまで、阿部と武者小路の社会観を考察する研究はなされていない。その際、浮上したのが「同情」と「隣人愛」の概念である。これは、阿部がリップスの感情移入を「同情」と訳していたことから始まった。阿部は、彼自身の解釈でこの言葉を用いていたが、「同情」「隣人愛」は、当時の日本において重要な役割を果たしている。 本稿では、「同情」に着目し、キリスト教と反キリスト教の両面から考察し、この視点から一例として、ショーペンハウア―受容を取り上げた。それは、阿部だけでなく、武者小路や森鴎外(一八六二~一九二二)、島村抱月(一八七一~一九一八)など、当時の知識人達に広まっていた。中でも、井上哲次郎(一八五六~一九四四)に見られるように、ショーペンハウアーは仏教の側面からも解釈されており、阿部と武者小路の社会観でも人格的価値や善という側面に共通性が見られた。 また、阿部と武者小路は各々「第三の社会」や「第三のもの」という国家や共同体観を持っており、これは当時、既に受容されていたイプセンの戯曲に登場する『皇帝とガラリヤ人』(一八七三年)で著した「肉の王国」と「霊の王国」を経て霊肉一致の「第三帝国」を求める人々の姿を想像させる。 イプセンの戯曲では、ギリシアの古代精神とキリストの精神を統一融合した世界として「第三帝国」が表現されるが、阿部と武者小路の目指す社会は、同時代に受容された感情移入説と人格向上が融合したものであった。 以上の考察の結果、武者小路の共同体はカントの「目的の国」と似ており、阿部の国家はヘーゲルの『法哲学』の国家観と似た特徴を持ち、両者は善の社会を目指している点では共通した思想を持っていたのである。Abe Jirō (1883–1959) declared that a good society can be created through “personalism” (1922). He thought that the improvement of individual personalities would lead to a virtuous society. Mushakōji Saneatsu (1885–1976) had a similar idea. Abe Jirō’s idea of “personalism” resembled Mushakōji Saneatsu’s thinking about the “ideal society.” In this essay, I have inspected their ideas. Abe Jirō said that sympathy is a kind of empathy; and empathy, when seen aesthetically, is also applicable to society. I investigated the problem of sympathy from the point of view of empathy. The theory of empathy proposed by Theodor Lipps (1851–1914) was introduced in Japan in discussions of aesthetics and psychology. Mori ōgai (1862–1922) was the first to take up the problem, and it spread among the intellectuals of that time. Sympathy was understood in terms of religion when Schopenhauer’s thought was transmitted to Japan. Schopenhauer can be interpreted from a Buddhist point of view, as seen in the writing of Inoue Tetsujirō (1856–1944). I investigate “sympathy” and “neighborly love” from the time of Schopenhauer’s reception in Japan. Lipps’s idea applies to all interpretations. Therefore, their interpretation differentiate with that of someone. But Abe’s and Mushakōji’s ideas resembled those of others in the same period. Ibsen (1828–1906), in his play Kejser og Galilaer (1873), had put forward something similar in his idea of “the third society” that unites the flesh as expressed by the Greek mind and the spirit as expressed by the Christian mind. Similarly, in Japan, Abe Jirō and Mushakōji Saneatsu saw their country as one in which sympathy and personalism were fused. Abe’s idea may also be compared to Hegel’s “philosophy of law,” and Mushakōji’s ideal society may be compared to Kant’s idea of a “goal country.” Abe and Mushakōji thought that religion is goodness.