著者
鈴木 堅弘 Kenkou SUZUKI スズキ ケンコウ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.7, pp.19-54, 2011-03-31

これまで春画といえば、性表現を扱った絵画として研究対象から除外されてきた。ところが近年、こうした傾向はしだいに改善され、春画に関する研究書が数多く出版されるようになり、春画の公開データベースが大学や研究所で作成されている。 こうした春画研究の進展を受けて、今回、国際日本文化研究センターに所蔵されている春画・艶本コレクションの三五〇〇画図を分析対象とし、江戸春画に描かれた図像表現を数量として把握することを目的とした。その方法として、一枚の春画から「性描写の有無」、「性交者の性別」、「性交者の立場(男性)」、「性交者の年齢(男性)」、「性交者の立場(女性)」、「性交者の年齢(女性)」、「第三者の有無」、「第三者の立場」、「第三者の年齢」、「第三者の行為」、「場所」、「場所の種類」、「場所の開放性の有無」の図像情報をカテゴリー別に抜き出し、その数量を数えることで、春画に描かれた人物(立場)、性別、場所などの割合を算出する。そのことで、江戸春画に描かれた図像表現の全貌を明らかにする。 また春画は性表現を多分に含んでいるがゆえに誤解も多く、ポルノグラフィと同意義に扱われたり、男色画や手淫画などが多く描かれていると考えられてきた。そこで本考察では、江戸春画の特色を正確に把握することで、こうした誤解をひとつひとつ解いていき、これまでの春画認識に新たな見解を示す。 なお本論では、春画の図像を分析する際に、同時代の風俗画や随筆類を積極的に参照した。江戸春画には当時の生活風景がありのままに描かれており、春画表現を通じて江戸時代の色恋の風俗を読み解くことも試みている。Heretofore, Shunga has been marginalized and excluded from academic research in favor of nature paintings. Recently, however, numerous book of research on Shunga have been published, and databases of Shunga have been established in universities and research institutes.This paper analyzes 3500 picture figures of the Shunga collections that are kept by the International Research Center for Japanese Studies and utilizes quantity analysis to examine the picture figures expressed in Shunga.Shunga is an often misunderstood form of artistic expression. For instance, there is a common misunderstanding that Shunga is the same as pornography and often depicts homosexual acts. This paper attempts to correct such misunderstandings by illuminating the characteristics of Edo Shunga.As the daily lives of ordinary people were often depicted in the Shunga of the Edo period, this paper also discusses the culture and customs in the Edo period by analyzing the Shunga of the era.
著者
岡本 貴久子 Kikuko OKAMOTO オカモト キクコ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.9, 2013-03-28

本研究では近代日本において実施された「記念」に樹を植えるという行為、即ち「記念植樹」に関する文化史の一つとして、明治12(1879)年に国賓として来日した米国第18代大統領U.S.グラント、通称グラント将軍による三ヶ所(長崎公園・芝公園・上野公園)の記念植樹式に焦点をあて、それが行われた公園という空間の歴史的変遷を分析することによって、何故そうした儀式的行為が営まれたかという意図とその根底に備わっていると見られる自然観を考察した。 なぜ記念植樹か。実は近代化が推進される当時の日本において記念碑や記念像が相次いで設置されていく傍らで、今日、公私を問わずあらゆる場面において一般的となった記念樹を植えるという行為もまた同様に、時の政府や当時を代表する林学者らによって国家事業の一環として推進されていたという事実があり、加えてこうした儀式的行為を広く一般に浸透させる為に逐一ニュースとして記事にしていた報道機関の存在から、記念に植樹するという行為もまた日本の近代化の一牽引役として働いていたのではないかと推測され得るからである。 本文では1872年のグラント政権が開国後間もない新政府の近代化政策に与えた諸影響を中心に論じたが、例えばこのグラント政権下において米国で初めて国立公園が設定され、Arbor Dayという樹栽日が創設され、且つ同政権下の農政家ホーレス・ケプロンが開拓使顧問として来日、増上寺の開拓使出張所を基点に北海道開拓を指揮するなど、グラント政権下における殊に「自然」に関わる政策で新政府が手本としたと見られる事柄は少なくない。こうした近代化の指導者ともいうべきグラント将軍による記念植樹式は、いずれも明治6(1873)年の太政官布告によって「公園」という新たな空間に指定された社寺境内において営まれ、米国を代表する巨樹「ジャイアント・セコイア」等が植えられたのだが、新政府にとってそれは単に将軍の訪日記念という意味のみならず、「旧習を打破し知識を世界に求める」という西欧化政策を着実に根付かせる意図を持ってなされた儀式的行為であったと考えられる。しかしながら同時にこの儀式的行為は、「樹木崇拝」という新政府が棄てたはずの原始的な自然崇拝が根底に備わるものであり、新旧の自然思想が混淆している点を見逃してはならない。 従って明治初期の記念植樹という行為は、新旧あるいは西洋と東洋の思想とかたちと融和させるために行われた一種の儀式的行為であり、明治の指導者たちはこのような自然観を応用しながら近代化促進につとめたといえるのではないだろうか。Planting memorial trees is today a common practice. The act of planting such trees indeed contributed to the promotion of Japanese policies of modernization in the Meiji era, no less than erecting monuments or memorial statues. Two facts support this hypothesis. First, there are texts encouraging the planting of memorial trees, some written by Honda Seiroku, professor of the Imperial University of Tokyo, who laid the groundwork for modern forestry, and others issued by such government offices such as the Ministry of Agriculture, Commerce and Forestry. Second, the media came to recognize the news value of memorial planting and reported on it. Under these circumstances, memorial trees were planted widely as rites of national significance in modern Japan. The event that I examine here is the ceremony commemorating General Ulysses S. Grant’s visit to Japan as a state guest in 1879. Materials indicate that General Grant planted memorial trees at three different parks, all of which were former landholdings of Buddhist temples and Shinto shrines, transformed now into modern Japan’s first public parks by decree in 1873. An analysis of the characteristics and historical changes of these park spaces and the types of memorial trees chosen for planting suggests that the intention was to reflect the policy of Westernization in Japan, with its emphasis on breaking with the past and obtaining new knowledge. At the same time, the root of these ritual practices can be seen in the worship of trees which the government otherwise rejected. There is evidence here that an admixture of old and new ideas regarding nature was one source powering this particular aspect of the promotion of modernization in Japan.
著者
南 直子 Naoko MINAMI ミナミ ナオコ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.13, pp.257-264, 2017-03

本稿は、太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations, 略称IPR)の調査・研究機関としての側面に注目し、アメリカにおける日本研究の発展に果たした役割について考察するものである。IPRは、1925年にハワイで設立され、1961年までその活動を続けた民間の学術団体である。「太平洋諸國民ノ相互關係改善ノ為メ其事情ヲ研究スルコト」を目的として発足、アメリカに本部を、日本を含む各国に支部を置き、2~3年に一度、「太平洋会議」とよばれる会議を開催したほか、定期的に太平洋地域の調査・研究をおこなっていた。1995年に出版された資料によれば、IPRの出版物は、機関誌を含め約1,600冊に上る。そのような出版規模をもつ団体であるにもかかわらず、アメリカのマッカーシズムによって解散を余儀なくされたため、研究が避けられていた時代もあった。1990年代以降、研究が進んできたものの、太平洋会議を中心に、国際関係論や外交史の視点からその活動を論じた先行研究がほとんどである。しかしながら、IPRでは会議と同様、太平洋地域の調査・研究にも力を入れていた。アメリカで広く「日本研究」がおこなわれるようになった直接の契機となったのが、太平洋戦争であり、戦後、地域研究の一側面として発展してきたことは知られている。そのような日本研究がまだ盛んでなかった1920年代から、IPRはすでに日本をその研究対象としていた。1930年前後には、2度にわたり、日本研究をアメリカで拡大させるための調査をおこない、具体的なプログラムも実施していた。戦後、外国人による日本論として広く読まれた、E・ハーバート・ノーマン『日本における近代国家の成立』や、ジョージ・B・サンソム『西欧世界と日本』の成立にも、IPRが関係している。IPRは、①学術的日本研究をおこなった先駆的な機関であり、②全米の大学・機関における日本研究の動向を、初めて調査した機関でもあった。民間団体として調査・研究をおこなうというIPRの当初の目的は、時代とともに変化せざるを得なかった。だが、様々な日本関係書をのこしたその活動は、アメリカの日本研究において、先駆的な存在であったといえるだろう。The Institute of Pacific Relations (IPR) was founded as a non-governmental academic organization in Honolulu in 1925. Attempting to improve relations among the countries in the Pacific Rim, it held international conferences every two or three years. It published numerous reports concerning diverse issues such as immigration, religion, and politics. In 1961, the institute was forced into dissolution under the strong influence of McCarthyism, and little attention was paid to it thereafter.In 1993, the first international conference was held to reexamine and reevaluate the IPR. Consequently, many scholars became interested and involved, and began investigating issues related to the IPR. The majority of them, however, tended to focus mainly on the IPR conferences restricting the significance apportioned to the IPR to the fields of foreign policy and international relations.This paper contends that the IPR had another key area of significance as well, arguing that even in the 1920s, the IPR played an indispensable role as a research institute. At the time, Japanese Studies was not a popular field of study in North America, and this state of affairs lasted until the outbreak of the Pacific War when, in order to understand their enemy nation, the US government began encouraging study of the subject. Prior to the war, the IPR had already published many books on Japan, and these amounted to 130 by the end of the war. Naturally, much of the research already conducted by the IPR was utilized when the US-led GHQ occupied a defeated Japan.It should be noted, however, that the IPR was already engaged in promoting Japanese Studies well before the war, and thus contributing to the development of the discipline. For example, the organization was already conducting research on Japan at various universities, colleges, and other institutions in the late 1920s. Scholars of Japanese Studies such as E. H. Norman and G. B. Sansom were involved in this research, and it is worth remembering that influential books of theirs, such as Norman's Japan's Emergence as a Modern State and Sansom's The Western World and Japan, were first published by the IPR. This paper outlines the wide activities conducted by the IPR in the fields of publication and academic engagement as well as conferences.
著者
君島 彩子 Ayako KIMISHIMA キミシマ アヤコ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.11, pp.143-159, 2015-03

本稿は、広島と長崎の公園に建立された観音像の事例から、原爆の記憶について論じたものである。観音像は「原爆死者」や「原爆災禍」の記憶を伝える造形物であり、二面的な記憶を想起させる。一方は原爆投下という「社会的な出来事」と原爆による「集団的で匿名の死者」の記憶であり、もう一方は近親者など「顔の分かる死者」の記憶である。本稿では、原爆災禍と集団的な原爆死者の記憶を想起させる役割を「モニュメント」、個人的な死者の記憶を想起させる役割を「墓標」と定義し、爆心地の公園に建立された観音像の分析を行う。墓地とも関わりの深い仏像は、家族や友人など顔を思い出すことのできる死者を記憶し、慰霊するために立てられることが多く、「墓標」としての役割が強いが、仏像の中でも観音像は、近代的な思想の中で神聖化された「母性」の象徴とされることでモニュメンタルな意味を持つことがある。近代的な「母性」の象徴としての観音は、「軍国主義」に対して「新しい国家」のアレゴリーとして捉えられ、「平和」の象徴となった。つまり観音像には、「墓標」と「モニュメント」双方の意味が内在されているのである。原爆によって一瞬にして焼け野原となった広島と長崎の爆心地付近は公園として整備され、毎年8月には大規模な平和記念式典が行われている。行政によって作られた公園は、原爆災禍の記憶を伝える巨大な「モニュメント」ともいえる。しかし、公園となっている場所は、多くの人々の命が失われた場所であり、式典が行われる日は彼らの命日である。式典当日、公園内の観音像の参拝者から聞き取り調査をおこなった結果、観音像によって原爆で亡くなった親族の記憶や、かつての暮らしの記憶が思い出されていることが明らかになった。公園という公共空間の観音像も、その場所の記憶や遺骨との関係性によって、個人的な死者の記憶を想起させる「墓標」の意味を含んでいる。しかし、碑文によって説明を行なう「原爆碑」とは異なり、観音像のもつ意味は変化しやすいため、対面的な死者の記憶をもつ人間がいなくなった時、その意味が変化すると考えられる。This paper discusses how the statues of Kannon (Avalokitesvara) in the peace parks that were established in the hypocenters in Hiroshima and Nagasaki have helped to pass on the memory of the "atom bomb dead" and the "atom bomb disaster." The statues of Kannon that have been erected there serve as one form of monument. I consider that there are two directions in the "memory" thus represented. One is the "social event" of the atomic bombing and memory directed toward the "collective anonymous dead," and the other is memory directed toward the "dead with names." In this analysis, the statue of Kannon, representing memory in the social and anonymous direction, is classified as a monument, and memory in the individual direction is classified as a grave marker.
As an object of Buddhist belief, the statue of Buddha is often established for the worship and remembrance of the dead whose faces their friends and families can still remember and for whom the meaning of grave marker is stronger. However, among all the images of Buddha, the statue of Kannon has also come to be a monument, as a symbol in latter-day thought of "motherhood" as well as a monument conveying the tragic memory of the atom bomb as an allegory of "peace" and "post-war Japan."
The peace parks, developed after the war in the hypocenters of Hiroshima and Nagasaki that instantly became burnt-out areas due to the atom bombs, are where today large-scale peace memorial ceremonies are held every August. I have interviewed people who have come to pray during the August ceremonies. As a result, I have learned about their family members who died on the sites of the peace parks. Because the current peace parks are the places where their relatives lost their lives, the days of the peace memorial ceremonies have also become for the families the days for family commemoration of the anniversary of their deaths. The peace parks established by the nation have also become huge "monuments" to tell the memory of the collective dead to the countless number of people who visit there. However, different from a monument written in characters, the statues of Kannon in the parks have also become grave markers to evoke the memory of the individual dead. This meaning of the statues of Kannon may change, and may eventually come to express folk beliefs in Buddha, or another allegory of "peace" as a part of the larger monument complex, when living persons no longer have a memory of the individuals who perished there.
著者
藤原 哲 Satoshi FUJIWARA フジワラ サトシ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.195-219, 2012-03-30

本論の目的は古墳時代における軍事組織の可能性を探ることである。これを検討するための考古学的な資料としては古墳時代の武器や武具が挙げられる。しかしながら古墳時代の武器は大部分が墳墓から出土しており、直接的には戦闘や軍事組織を反映していない可能性が高い。 そのため、武器という資料を検討する一手段として遺物の出土状況、すなわち古墳における武器の配置状態を検討し、墳墓としての古墳で武器や武具がどのように取り扱われてきたのかを探る。そのことで当時の武器の価値的な側面を明らかにする。その結果から古墳へ埋納された武器がどの程度、実際の武装(実用性)や組織を具現していた可能性があるのかを考えてみた。 古墳時代前期~後期の未盗掘の竪穴系墳墓を中心に武器の副葬状況を検討した結果、近畿を中心とする大・中規模の古墳においては、「遺骸の外部との遮断」から「武器の同種多量埋納」、「記号的属性を帯びた副葬」へという変化過程を経ることを明らかにした。一方、中・小型の古墳では、前期において少数の武器を人体付近に副葬する事例が多く、中期にいたると防御用道具(甲冑)、接近戦用道具(刀剣)、遠距離戦用道具(弓矢)など、それぞれ用途の異なる武器を少数ずつ人体周辺に副葬する特長が抽出できた。 武器の価値的な背景を検討し、武器副葬の意義を考察した結果、大・中の首長たちの副葬行為は武器を大量に副葬するという象徴的な、又は記号的な意味合いが強いと考えた。対照的に、中・小首長たちは、人体付近に武器を副葬しており、それら武器は実際に使用していた、又は生前の身分を表すような価値的な背景を推察した。その結果から、古墳時代の副葬武器から実際の戦闘や軍事組織が復元できる可能性を指摘した。
著者
ヨトヴァ マリア
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.159-176, 2012-03

本論文の目的はブルガリアのポスト社会主義期におけるヨーグルトの表象について、トラン地域の博物館展示を事例として、その特徴を明らかにすることである。また社会主義とその崩壊、EU加盟という時代の荒波を経験したブルガリアが、ヨーグルトに対してどのような意味付けをおこなっているのかを考察することである。 もともと、トラン市のヨーグルト博物館は地域振興を目的として2006年に設立された。しかし、展示内容としては、地域の乳食文化の紹介ではなく、"ブルガリアヨーグルト"の輝かしい歴史を全面に押し出し、国際舞台におけるその高い評価の主張を試みているようにみえる。また、本博物館で語られるヨーグルトの歴史からは、社会主義という過去は完全に消去されており、現代社会における「健康食品」や「長寿食」としての価値が強調されている。結果的に、本博物館の展示からは、ブルガリアが西欧と同様の価値観を共有しており、乳酸菌研究の発展や現代社会の健康的な生活に大きく貢献していることが伝えられている。このような表象は先行研究が示してきたような旧ソ連圏における「西欧製」(資本主義的味覚)という象徴的価値の低下や「ソビエト製」(われわれの味)がもたらす郷愁的価値の上昇といった食の表象とは明らかに異なっている。 東欧諸国の食を取り上げた文化人類学的研究は、民主化以降の自国の食の再評価について社会主義への郷愁や資本主義に対する失意から生じるものとし、それをナショナリズム的な反応や「オスタルジア現象」(東へのノスタルジア)と捉えてきた。しかし、ブルガリアにおけるヨーグルトの表象の事例からは、社会主義・資本主義、西欧・東欧を問わず、「長寿」や「健康」のような人間の普遍的価値が全面的に押しだされていることがわかる。そして、ヨーグルト博物館の展示においても、社会制度や時代を超えた「長寿食」としての"ブルガリアヨーグルト"の姿が浮かび上がってくる。 そこで、本稿はブルガリアの博物館展示におけるヨーグルトの表象を「ナショナリズム的な反応」や「オスタルジア」ではなく、自己肯定化への意識的な試みとして捉える。また、博物館展示を第三者の視点から「評価」するのではなく、それを事例として民主化以降のブルガリアにおいてヨーグルトがいかに自己規定のために重要な存在であるかを示す。Focusing on the case study of the Yogurt Museum in the region of Tran, this paper aims to investigate how dairy food culture is represented in post-socialist Bulgaria. It also considers the cultural meaning of yogurt in the light of the dramatic changes after the collapse of the socialist system. The Yogurt Museum was originally established in 2006 for the purpose of tourism development in the region of Tran. However, looking at the museum exhibition, it becomes clear that its aim is rather to highlight the international success and glorious past of "Bulgarian yogurt" rather than to show the traditional dairy culture of the local people. What is more, socialism, which inflicted dramatic changes on dairy farming and overall life in the country, seems to be erased from the yogurt history now told by the museum exhibition. Instead, it emphasizes the paramount importance of yogurt as food which can support the lives of modern people, bringing them "health" and "longevity". Thus, indirectly, but quite successfully, the exhibition conveys the notion that Bulgaria not only shares the same values as the European community but is also an important part of Europe, contributing significantly to its prosperity. This attempt to erase the socialist past from the history of a national food product such as yogurt is a tendency that distinguishes Bulgaria from other post-socialist countries where, as previous studies have shown, most people feel nostalgia for national (or "socialist") food and disappointment with foreign (or "capitalist") food. They express these feelings of nostalgia and disappointment by denouncing foreign (global) producers and giving special value to national (local) manufacturers. Such persistent preference for the food of one's own country has been defined as "nationalism" or "Ostalgia" (i.e. nostalgia for the East) in post-socialist anthropological research. However, the museum exhibition dedicated to Bulgarian yogurt, which lays more stress on such universal human values as "health" and "longevity" rather than the national dairy traditions or the grandeur of the Bulgarian dairy industry during socialism, shows quite a different picture. In this sense the museum representation of "Bulgarian yogurt" cannot be considered as "food nationalism" or some form of nostalgia for "socialist food". It is rather an attempt to build a positive image of the national self in times of radical social and economic change. The case of "Bulgarian yogurt" comes to show how a traditional food product can provide an alternative form of self-presentation, thus assisting the transition of a country from state socialism to democracy and a market economy.
著者
藤原 哲 Satoshi FUJIWARA フジワラ サトシ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.7, pp.59-81, 2011-03-31

1980年代までの研究において、環濠集落は弥生時代の代表的な集落であり、かつ防御的な機能を有しているという認識が強かった。近年では環濠集落像の見直しが進み、防御説に立脚しない論旨を展開する研究者も多く、集落ではない環濠の存在も指摘されるなど、新たな環濠像が数多く提示されるようになってきている。 従来のように「環濠集落=標準的な弥生集落」という見方は正しいのであろうか、小論では日本列島や弥生集落全体の中で、環濠集落がどのように位置づけられるのかの検討を試みた。 研究方法としては、近年、数多く調査されるようになった環濠集落のうち、ある程度構造が明らかな約300遺跡を集成し、時系列と分布とを中心として再整理する。また、集落規模や立地条件をもとに環濠集落の分類を行った。 上記の分析を通じて、環濠集落は源流となる韓国においても、日本列島での弥生時代を通じてみても、標準的な集落ではなく、むしろ極めて希少な集落形態であることを明らかにした。また、集落ではない環濠遺跡が多数あることも改めて認めることができた。 環濠集落の分類結果では、農耕文化が本格的に定着した時期に成立するような中・小規模の農耕集落が大多数であった。しかし、農耕文化成立期の全ての弥生集落に環濠が巡っていたわけではないため、環濠集落とはある特定の農耕集団の所産によるものと推察した。大規模な環濠集落や高地性の環濠集落などについては、更に数が少ない特殊な集落であることを指摘した。 これらの分析から、これまで標準的な弥生集落と思われがちな環濠集落が極めて希少な例であり、日本列島の弥生社会では農耕文化そのものを受け入れない地域、農耕文化と環濠集落の両方を受け入れる地域、農耕文化は受け入れても環濠集落を受け入れない地域など、様々な地域差が想定できた。This paper presents research on moat encircling settlements of the Yayoi period in Japan.Until the 1980s, many archaelologists thought the moat encircling settlements of at the Yayoi period were standard Defense settlements for warfare. Recently, however, many researchers have not adopted the defense theory.In this paper I review and consider Yayoi moat encircling settlements based on the research results so far. I have studied the research on over 250 moat encircling settlements in Japan and Korea. It is thought that, moat encircling settlements were not standard large settlements of the Yayoi period, rather, they were very rare settlements and only particular farming groups lived at such moat encircling settlements.With the establishment of agricultural culture, encircled settlements declined and eventually disappeared in Yayoi Culture. Most moat encircling sites were not settlements; however, some moat encircling settlements in the middle stage of the Yayoi period were large settlements.The examination and understanding of the moat encircling settlements of the Japanese islands can illuminate various regional differences.
著者
花上 和広 Kazuhiro HANAUE はなうえ かずひろ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.16, pp.31-52, 2020-03

源顕房は、土御門右大臣源師房二男、母は道長女尊子。右大臣従一位に至る。同母兄に左大臣俊房、同母妹に藤原師実室麗子がいる。娘賢子は師実の養女となり、その後、白河天皇の中宮となる。賢子は媞子内親王・善仁親王(堀河天皇)らを儲け、顕房は堀河天皇の外戚となる。この時代は、天皇家と摂関家は対立していることを前提に和歌事象が捉えられているが、天皇家や摂関家などは互いに血縁関係があり、対立構造だけでなく融和的構造という方向からも理解を進めていく必要がある。本稿は、顕房の詠んだ和歌二十三首について、歌の集成と考証作業を通して、歌人としての顕房の活動を論ずるための基礎資料を示し、白河朝から白河院政期における権門歌人としての顕房の和歌史上における位置について考察したものである。以下、知り得たことを整理し、権門歌人顕房のありようを示す。まず、初期の代作の問題があげられる。顕房一五歳の歌合詠は侍従乳母の代作というが、同年に催された他の歌合においても、同じように代作してもらった可能性がある。また、郁芳門院根合では、その作者名表記に関して、顕房の代作の問題があげられる。顕房が歌合などのハレの場で歌を詠むことは権門歌人として果たされるべきことであった。若い時には代作をしてもらい、長じては代作をするということをした。次に顕房は、若い時から晩年に至るまで歌合に深く関わってきた。特に承暦二年四月廿八日内裏歌合や寛治七年五月五日郁芳門院根合において判者を務めたことは、権門歌人として重要な仕事であった。三つ目は顕房と経信の関係についてである。二人は中宮馨子内親王の中宮職の役職において、顕房は中宮大夫、経信は中宮権大夫という身分差のある関係であった。また『大納言経信集』には、馨子内親王が斎院退下後は師房第に住まい、そこで遊びが催された記事等より、経信と顕房の近しい関係が見出される。顕房と経信は多方面でいろいろな関係が見出される。最後に顕房詠が『後拾遺集』と『金葉集』にそれぞれ四首ずつとられていることは、彼が当代歌人として評価されたことの証ともなろうが、それらの撰集を命じた白河院との特別な関係(顕房は院の舅で堀河天皇の外祖父)も影響しているのであろう。この時期の歌壇史における天皇家と摂関家は、一般的に対立構造が指摘されている面もあるけれども、顕房の和歌活動を通してみると、顕房も摂関家の一員であるが天皇家とも極めて融和的な関係が保たれてきた。権門歌人顕房の特徴がそうしたところにもあったといえよう。Minamotono Akifusa was the second son of Tsuchimikado Udaijin, Minamotono Morofusa. He became an udaijin (the third adviser to the Emperor) and was called Rokujo-Udaijin, because he lived on the 6th Street of Kyoto.He had an older brother Toshifusa who became a sadaijin (the second adviser to the Emperor), and a younger sister Reishi who married Morozane.Morozane adopted Akifusa's daughter Kenshi, who became the Empress of Emperor Shirakawa. Empress Kenshi had three children, the imperial prince Atsufumi, the imperial princess Teishi, and the imperial prince Taruhito (Emperor Horikawa). Akifusa was a maternal relative of Emperor Horikawa. He was also a kenmonkajin (a poet from an influential family).He lived from the Emperor Shirakawa period to the Emperor Shirakawa Insei period. At that time Emperor Shirakawa came to take the reins of government personally.The purpose of this paper is to study his activity as a kenmonkajin and discuss his position as a poet in the Insei period, through examination of each of the 23 waka Akifusa wrote.What I found noteworthy through the research may be summarized as follows.1. It is important to examine Akifusa's ghostwriting in Utaawase (a poetry contest). He had Jijunomenoto (a court lady) compose a waka poem, when he was 15 years old. After he grew up, however, he came to compose waka for other people. As a kenmonkajin, he had the responsibility to compose waka poems on many occasions.2. Akifusa and Minamotono Tsunenobu (an excellent poet and bureaucrat) worked together in various situations. At one time Akifusa was the boss and Tsunenobu was his subordinate at the Empress Kyoshinaishinno's house. After the Empress retired from the Saiin, she lived in Morofusa'house. Whenever they had a banquet, they composed and exchanged waka poems, according to Dainagontsunenobu-shu (Tsunenobu's personal waka anthology).3. Of his 23 waka poems, four waka poems were included in the Goshuiwakashu (an imperial waka anthology) and another 4 waka poems were chosen to be in the Kinyowakashu (an imperial waka anthology). This is especially worth noting since there was no other instance where one poet had 8 waka poems chosen.4. Some studies have claimed that the Imperial family and the Sekkanke (regent house) at this time were not on good terms with each other. His waka poems appear to have a deep relationship with the Imperial family, and he had a strong connection with the Sekkannke (regent house), exchanging waka poems. This indicates that he had a good relationship with both the Imperial family and the Sekkanke (regent house) as a kenmonkajin.
著者
鈴木 堅弘
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.7, pp.19-54, 2011-03

これまで春画といえば、性表現を扱った絵画として研究対象から除外されてきた。ところが近年、こうした傾向はしだいに改善され、春画に関する研究書が数多く出版されるようになり、春画の公開データベースが大学や研究所で作成されている。 こうした春画研究の進展を受けて、今回、国際日本文化研究センターに所蔵されている春画・艶本コレクションの三五〇〇画図を分析対象とし、江戸春画に描かれた図像表現を数量として把握することを目的とした。その方法として、一枚の春画から「性描写の有無」、「性交者の性別」、「性交者の立場(男性)」、「性交者の年齢(男性)」、「性交者の立場(女性)」、「性交者の年齢(女性)」、「第三者の有無」、「第三者の立場」、「第三者の年齢」、「第三者の行為」、「場所」、「場所の種類」、「場所の開放性の有無」の図像情報をカテゴリー別に抜き出し、その数量を数えることで、春画に描かれた人物(立場)、性別、場所などの割合を算出する。そのことで、江戸春画に描かれた図像表現の全貌を明らかにする。 また春画は性表現を多分に含んでいるがゆえに誤解も多く、ポルノグラフィと同意義に扱われたり、男色画や手淫画などが多く描かれていると考えられてきた。そこで本考察では、江戸春画の特色を正確に把握することで、こうした誤解をひとつひとつ解いていき、これまでの春画認識に新たな見解を示す。 なお本論では、春画の図像を分析する際に、同時代の風俗画や随筆類を積極的に参照した。江戸春画には当時の生活風景がありのままに描かれており、春画表現を通じて江戸時代の色恋の風俗を読み解くことも試みている。Heretofore, Shunga has been marginalized and excluded from academic research in favor of nature paintings. Recently, however, numerous book of research on Shunga have been published, and databases of Shunga have been established in universities and research institutes.This paper analyzes 3500 picture figures of the Shunga collections that are kept by the International Research Center for Japanese Studies and utilizes quantity analysis to examine the picture figures expressed in Shunga.Shunga is an often misunderstood form of artistic expression. For instance, there is a common misunderstanding that Shunga is the same as pornography and often depicts homosexual acts. This paper attempts to correct such misunderstandings by illuminating the characteristics of Edo Shunga.As the daily lives of ordinary people were often depicted in the Shunga of the Edo period, this paper also discusses the culture and customs in the Edo period by analyzing the Shunga of the era.
著者
片岡 真伊 Mai KATAOKA カタオカ マイ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.83-101, 2016-03

本稿は、第二次世界大戦後に日本文学の英訳に貢献したエドワード・サイデンステッカー(1921–2007)が、川端康成の小説「伊豆の踊子」を英訳・再翻訳するにあたり、どのように異なる翻訳手法を用いたかを考察したものである。サイデンステッカーはコロラドに生まれ、大学で英文学を専攻した後、第二次世界大戦中にアメリカ海軍日本語学校で日本語を学んだ。アメリカ海兵隊の一員として日本の地に初めて足を踏み入れた後、終戦後に一旦外交官を志すもののその道を諦め、英語圏での日本文学の紹介に尽力した。サイデンステッカーが手掛けた翻訳作品のうち、川端文学は彼の翻訳作品群の中核をなすものであり、中でも「伊豆の踊子」は、初期に取組んだ翻訳作品として、また改訂を行なった最後の翻訳作品として、サイデンステッカーの翻訳手法を検討していくうえで欠くことの出来ない作品である。サイデンステッカーによる「伊豆の踊子」の最初の英訳は、1954年に『アトランティック・マンスリー』の『パースペクティヴ・オブ・ジャパン』と呼ばれる付録冊子に掲載された。大胆な起点テクスト(ST: source text、原文)の削除や省略、調整などを特徴とするサイデンステッカーの訳は、誌内の限られたスペースに掲載するという編集者により課せられた条件のためのみならず、日本のことをほとんど知らない一般読者層を想定した、英語圏でも受容されやすい文体や形式への抄訳・変更を行っている。しかし、サイデンステッカーは、1997年にThe Oxford Book of Japanese Short Storiesのため、「伊豆の踊子」を再翻訳している。この改訳版の英訳文は、省略部分を元に戻し、また加筆を取払うことにより、原文に寄り添った英訳へとその姿形を変えている。このような変化を含む二つの異なる版の翻訳を比較検討することにより、本稿では、訳者自身が言うところの「読者を甘やかす」翻訳から「几帳面な」翻訳への推移を、主に周縁のエピソードや登場人物の削除、そしてテクスト内の異文化要素(CSIs: Culture Specific Items)に焦点をあて考察する。また、こうしたアプローチに反映されている翻訳者の姿勢の変容についても触れ、翻訳者としてのスキルの向上や原文解釈の深化、そして英語圏での日本文化の認知のされ方の変化などを含む、訳文および翻訳者を取り巻く文化的・社会的背景が翻訳に与えた影響についても論じる。This paper will explore how the translation strategy of Edward G. Seidensticker (1921–2007) shifted between his two English versions of "The Izu Dancer" (1954 and 1997). As an undergraduate at the University of Colorado, he majored in English Literature. Seidensticker joined the Navy Japanese Language School during World War II and went to Japan as a member of the U.S. Marine Corps. After the War ended, he gave up the idea he had of becoming a diplomat and started to translate modern Japanese fiction. The literature of Kawabata Yasunari was one of his focuses throughout his career; among the works he translated, "Izu no odoriko" 伊豆の踊子 (The Izu Dancer) is of particular importance. It was the very first Kawabata translation that Seidensticker attempted, and since he revised it at the end of his career, it shows his changing approach and method as he matured as a translator.Seidensticker published his first English rendition of Kawabata's "Izu no odoriko" in Perspective of Japan: An Atlantic Monthly Supplement in 1954, early in his career as a translator. Bold omissions, interpolations and modulations of the ST (source text, i.e. original text) were made in order to fit the work into the limited space given to him by the editor, but also to tailor it into a more accessible literary form for general readers of that time, who still knew little about Japan. In 1997, however, he retranslated "The Izu Dancer", this time as an unabridged translation for The Oxford Book of Japanese Short Stories. All omitted parts were restored, interpolations removed, and further changes were made to bring the TT (target text, i.e. translated text) closer to the ST.By comparing these two English translations of "The Izu Dancer," this paper will illustrate the ways in which Seidensticker's 1997 translation strategy had shifted from that of 1954, focusing on omissions of subsidiary episodes and characters, and the treatment of culture-specific items (CSIs). I will also demonstrate how a translator's attitude towards translation can change over time along with the maturation of skills, change in understanding of the ST, and more crucially, the social and cultural context of the time when a work is being translated.
著者
堀田 あゆみ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.117-135, 2012-03

本稿では、必要最低限のモノだけで暮らしモノに執着しないといったモンゴルの遊牧民に対する言説によらず、現地調査によって得られた知見をもとに、彼らのモノをめぐる世界を明らかにする。遊牧が盛んなアルハンガイ県において、遊牧民の生活世界にあるモノの悉皆調査を行った結果、一世帯に373品目1539点のモノが存在していることがわかった。特徴的なのは、譲渡や貸借によってモノが生活圏を越え頻繁に移動することである。 とりわけ貸借は広く行われておりその対象も多様である。所有者から得た利用権によって借り手は自由に使用できる。廃棄や第三者への譲渡は許されないが、利用が終了しても所有者が取りにくるまで手元に留め置いてもかまわない。なぜなら遊牧民にとって、モノの所有とは占有を意味しないからである。切迫した必要がなければ手元に無くてもよく、入用の際に返却を求めるか、別の家から拝借すればよいと考えるのである。 しかし、常に気前よく要求に応じるわけではなく、譲渡や貸借をめぐって熾烈な駆け引きが展開される。所有者も要求者も様々な交渉を用いて自己主張を行う。所有者による要求の拒否はいずれ我が身に跳ね返るというリスクを伴うため、交渉で妥協点を探りあうことが重視される。また、社会関係を損なわずに交渉を有利にすすめるための戦略として情報管理が行われる。その一つが隠蔽工作であり、生活世界に存在するモノの三分の二を隠すことで、モノに関する情報の漏洩と物理的なアクセスを阻んでいる。他方で、見せることを前提に情報操作を行うこともある。あえて目に付く場所にモノを置き、アクセスさせることでケチではないという実績を作りながら、隠蔽しておいた残りを家族だけで利用するのである。 モノに執着する一方で必ずしも占有を意図しないという事実から、遊牧民はモノの所有には執着しないと言える。彼らにとって重要なのは、入用の際にモノが利用できるということであり、必要なモノが誰の所にあるかという情報である。モノは交渉によって入手できるため、全てを自らの所有にしておく必然性がないのである。つまり、本当に執着しているのはモノの情報であると言える。This article aims to clarify the place of material things in the Mongolian nomad's world. It does not rely on the discourse about nomadic values, which has held that nomads make do with the bare minimum and are not attached to things, but rather it is based on findings acquired in field work. In an exhaustive survey conducted in Arkhangai Province, I found that a nomadic household possesses a considerable number of material things—1,539 items of 373 different kinds of things. Further, I found that things have an existence that goes beyond the sphere of everyday life, and they change hands frequently by means of transfers and loans. Possession of things does not always mean continuous custody. Nomads may keep at hand an item that they have borrowed even after they have finished using it, until the owner comes to take it back. Nomads usually think that they do not have to be surrounded by their things all the time. It is only when they need a particular thing that they think they should either ask for its return or go to borrow the item from another house.However, nomads occasionally resort to fierce tactics when they demand or request transfers or loans. Both the owner and the requester assert themselves in various types of negotiation. If the owner refuses the request, there could be a risk of causing a future refusal of their own demand. Thus it is extremely important to try to seek and reach a compromise by negotiation. As a strategy to push negotiations forward to one's own benefit, efforts at concealment and information control are often part of the process. We can say that nomads are not deeply attached to possession of things, from the fact that their strong attachment to things does not always mean having concrete custody of them. The most important thing for Mongolian nomads is information about where things are. It is this information that allows them to negotiate with others and brings a chance to obtain the things that they need. That is to say, they do not have to keep things around them at all times. In conclusion, it can be said that it is information about things, not things themselves, that nomads are deeply attached to.
著者
西田 彰一 Shoichi NISHIDA ニシダ ショウイチ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.37-53, 2016-03

筧克彦は独自の神道思想を唱えたことで著名であり、かつ数多くの植民地官僚や神社関係者、農業移民の指導者に影響を及ぼした人物である。しかし、これまで筧が植民地に対してどのように向き合ったのか、その活動を具体的に検討した研究はなかった。そこで、本稿では筧克彦の植民地における活動の事例を分析することを試みる。特に、これまでまとまった研究がない満州での活動を中心にその全体像を明らかにしたい。まず第一章では筧の朝鮮半島訪問から、筧の植民地に対する基本的な立場をみる。続く第二章では、台湾訪問の際の講演から、筧の植民地序列化の論理を検討する。さらに第三章と第四章では、最も大きな足跡を残した満州での活動から、筧が植民地に対して実際にどのような役割を果たしたのかを論じる。そして最後に、筧がなぜ植民地で内地出身のエリートたちに支持されたのかを明らかにする。筧は内地と植民地を分け隔てなく考えた人物であるとされている。だが、基本的には(優れた日本対遅れた植民地)の二項対立にたっており、植民地の人々は教化の対象であった。彼の台湾での講演に代表されるように、筧は日本と植民地の序列をつくり、天皇崇敬の名のもとに帝国を統合しようと試みた人物であった。こうして、筧は教化の立場から植民地と向き合っていた。それでは、筧は実際の植民地の問題に直面した時、どのように対応したのであろうか。これについては、「満州国」における彼の活動が最も参考になる。筧は建国大学の創設委員を務め、さらに彼は満州国皇帝溥儀に進講をしている。筧の考えでは、満州の文化は朝鮮よりも優れている。だが、台湾よりは劣るものであった(台湾>満州>朝鮮)。そして、満州移民は日本の精神を満州に伝える役割を果たすとされた。しかし、その一方で、実際に植民地と接する場面では思うような成果を発揮できていない。筧は建国大学の創設委員であったが、筧の思想は満州国の日本人官僚たちに拒絶された。また、溥儀への進講も、「満州国」をあからさまに日本の天皇の下に置くものであったので、到底受け入れられるものではなかった。これでは、筧は結局植民地の実態に影響を与えなかったと看做すことができるかもしれない。だが、筧はその思想の固さ故に本土出身のエリートから信頼された。筧は天皇を仰ぐ日本古来の神道(古神道、神ながらの道)は生命すべてを天皇の下に輝かせる宗教であり、それを信じれば皆がまとまると戦後に至るまで一貫して主張していた。筧自身が植民地に抱いた率直な感想は優れた日本人対劣った植民地の人間というものであった。だが、そのように精神的に経済的に劣った植民地人であるからこそ、日本から来た内地人が模範として振舞い、教化しなければならないと説き続けたのであった。筧が植民地に与えた本当の影響とは、彼ら内地出身のエリートに自己正当化の知的枠組みを与えたことにあると言えるだろう。この「内向き」の知的枠組みこそが、却って彼らを勇気づけ、日本人のコミュニティーの中だけで通じる自己正当化のアイデンティティーの形成を手助けしたのである。Kakei Katsuhiko is well-known for his advocacy of a unique Shinto philosophy and had a considerable influence on colonial government officials, Shinto shrine administrators and agricultural emigration leaders. In spite of his substantial influence, there have been no specific researches on the effect he had on Japanese colonies. The present study aims to review and analyze Kakei's activities in Japanese colonies with special focus on those in Manchuria.In the first section, Kakei's fundamental stance on the colonies is reviewed with reference to his visit to the Korean Peninsula. In the second section, Kakei's hierarchical theory of the colonies is examined using a lecture he gave in Taiwan. The third and fourth chapters deal with the roles Kakei actually played in Manchuria, on which he left a major mark. Finally, I look at the reasons why Kakei was admired by the elite class in the colonies who has been sent out from the Japanese mainland.Kakei is said to be a person who did not discriminate between the colonies and mainland Japan, but his view was clearly rooted in the then-prevailing idea of "a superior Japan and inferior colonies"; thus, for Kakei, people in the colonies had to be cultivated. He attempted to establish a hierarchy between Japan and its colonies in the name and to the glory of the Emperor.In order to learn how Kakei responded to actual issues in the colonies, I look at his activities in Manchuria. Kakei served the Kenkoku Daigaku (National Foundation University) in Manchuria as a founding committee member. He also delivered lectures in the presence of the Puyi, the Emperor of Manchukuo. From his point of view, Manchurian culture was superior to that of Korea but inferior to that of Taiwan. He also believed emigrants from the Japanese mainland should play an important role in conveying Japanese spirit to Manchuria. However, he failed to produce the results expected of him in Manchukuo. Although he was a founding member of the Kenkoku Daigaku, his ideas were ultimately rejected by Japanese government officials in Manchukuo. Also, his lectures in the presence of Puyi were totally unacceptable to the Manchurians as Kakei outspokenly defined Manchukuo as a subordinate country under the rule of the Japanese Emperor.The paper concludes that Kakei did not actually have much influence on realities in Japan's colonies. Nonetheless, Kakei was admired for his solid and unwavering stance by elite officials sent from the mainland. Kakei consistently asserted that Japanese ancient Shinto (Ko-Shinto, centered on the philosophy of "kan nagara no michi") is a religion that leads all living beings to shine under the glory of the Emperor and that the empire could only be united when all its people believed in Shinto. His view of the people in the colonies being spiritually and economically inferior to people on the Japanese mainland led him to advocate that Japanese emigrants should beco role models for the local people. Kakei's chief contribution to the colonies appears to have been the establishment of an intellectual framework for self-justification of the emigration of an elite class from the Japanese mainland. Such an "inward-looking" intellectual framework helped forge an identity only valid in Japanese communities themselves, but unacceptable elsewhere.
著者
呂 怡屏 Yiping LU ル イーピン
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.13, pp.239-255, 2017-03

本稿の目的は、台湾において1999年に生じた大規模な地震である「九二一大地震」の後に作られた「九二一地震教育園区」と、2009年の台風に伴う土砂災害である「八八水害」の後に作られた博物館展示の内容を比較検討することである。前者が自然災害をもたらした環境と文化財への影響に対する意識を高め、後者がさらに台湾における原住民族の課題と深く関わってきたことを明らかにする。これにより、災害に関連して建設された博物館やその展示が、災害という課題だけでなく、地域の住民や民族集団のアイデンティティに影響を与えていく作用を有することを論じる。台湾では、1980年代に社会全体で民主化が進行した。人口の大多数を占める漢族系の住民に対して少数派であったオーストロネシア系の先住民である原住民族の間にも、「人権」、「土地権」、「自治権」、「言語・文化権」などへの意識が高まり、それらの権利回復を目的とする「原住民族運動」が社会運動として生じた。1994年の憲法改正により、原住民族の権利や文化を尊重することが求められるようになり、台湾各地で当地の民族の文化や歴史を展示するための地域原住民族博物館の建設が活発に進められた。1999年9月21日の九二一大地震以後、台湾の博物館は真剣に災害とその影響をテーマとして取り扱うようになった。このような中で、2009年、八八水害による自然的・文化的な被害が生じたことで、九二一大地震が起こった十年後、もう一度災害と人間の関係、そして被災地における文化と生活の再建への関心を人々の間に呼び起した。特に甚大な被害を受けた平埔原住民のシラヤ系タイヴォアン人の文化を再興するため、台湾の公立の博物館は、社会教育および文化保存・伝承を担う機関として、災害救援と文化復興に協力した。その中で、被災した小林村と同じ自治体にある高雄市立歴史博物館は、小林平埔族群文物館が完成するまでの準備と企画に取り組んだ。小林平埔族群文物館の常設展示の企画チームは被災者の意見を取り入れ、村の歴史を踏まえたうえで、昔の小林村の生活を再現することにした。展示の企画立案の過程と、実際に完成した展示は、現地住民の民族的アイデンティティを呼び起こすことに影響を与えたと考えられる。筆者は本論を契機として、開館後の文物館と村民とのコミュニケーション、および展示の中に盛り込まれなかった災害をめぐる経験と記憶の継承のありかたを研究課題として注目し続け、さらなる検証を重ねていきたい。This study focuses on the establishment of museums after natural disasters and the exhibitions held there. Using the exhibitions in Earthquake Museum of Taiwan and Shiaolin Pingpu Cultural Museum as case studies, this paper examines the process of planning exhibitions after natural disasters, while also investigating the construction of ethnic identity among the Pingpu indigenous people.After 1980s, along with the democratization of Taiwan society, indigenous people started to assert their rights, such as human rights, land rights, cultural and linguistic rights, and the right to autonomy. Through these movements, the Taiwanese population became well aware of the issues concerning the rights of indigenous people. In 1994, the rights of the indigenous people were included in Article 10 of Additional Articles of the Constitution of The Republic of China. Following this trend, in the late 1990s, the Council of Indigenous people founded 30 museums exhibiting the culture of the regional indigenous people in order to give a presentation of indigenous culture and history within those local societies.After the 1999 Jiji earthquake, museums in Taiwan started touching upon issues of natural disasters and their impacts. In this period, museums focused on rescuing items of cultural heritage and repairing historical architecture, but did not pay much attention to the relationship between natural disasters and indigenous people. But ten years later, Typhoon Morakot destroyed many towns and took many lives, especially those of the indigenous peoples. It forced the museums to reconsider what the role of the museum was in this case, as an institution of social education. After the typhoon, public museums both near and far from the stricken area have devoted themselves to rescuing items of cultural heritage, and also to helping victims to weather the hard time after the disaster. Furthermore, the government announced its decision to create the Shiaolin Pingpu indigenous museum, to commemorate this disaster and revive the Pingpu culture of Shiaolin village.In creating its permanent exhibition, the Shiaolin Pingpu Cultural Museum listened to and adopted the villagers' suggestions, as well as using regional history to offer a representation of the lifestyle in Shiaolin Village in the past. Through this process, we are able to observe the gradual formation of ethnic identity of the Pingpu people in Shiaolin Village. The next challenge for the Shiaolin Pingpu Cultural Museum is to interact more with the local residents, and to record narratives about the disaster which are not included in the permanent exhibition.
著者
川口 洋平
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.7, pp.123-132[含 日本語文要旨], 2011-03

近年、長崎と大阪においてスペイン産とされる「オリーブ壺」の出土を日本で初めて確認した。この壺は、北米の遺跡や世界各地の沈没船で存在が確認されているが、考古資料として本格的な研究が始まったのは1960年のアメリカのゴギン氏以降のことである。「オリーブ壺」という呼称であるが、文献からは内容物を完全には特定できず、オリーブ油とワインを中心に様々な容器として用いられたと考えられている。しかし、現在では球形で小さな口のつく容器の型式名として広く定着している。ゴギン氏は、基本的な型式分類を行ったが、その後、沈船資料を中心に研究が進み、口縁部の形態変化などの細かい研究がなされている。 長崎では二つの破片が出土した。内外面に黄色の釉がかかり赤褐色の胎土からなる球形の体部、および断面三角形を呈する口縁部である。この形はゴギン氏のB類に相当するが、胎土と釉は、他地域で出土しているものとは異なっており、マーケン氏の指摘するモンバサ沖で沈没したポルトガル船のものと似ていることから、ポルトガル産である可能性がある。出土状況から、それぞれ17世紀初期および17世紀代の年代が想定されるが、17世紀初頭には付近に教会があった記録があり、キリスト教との関連も指摘される。 大阪では、口縁部を欠く楕円形の体部が出土した。ゴギン氏の分類ではA類で19世紀以降とする後期の型式に近い。大阪の資料は1614年の大坂夏の陣に伴う火災層以前と思われ、年代的には一致せず、マーケン氏の指摘する「16世紀タイプ」(バハマ沖沈船など)や1600年にマニラ沖で沈没したサン・ディエゴ号の資料に近い。また付近からは、東南アジアを含む輸入陶磁も出土しており、貿易に関わった商人との関連が指摘される。 これらの本来の中身については、前述のとおり厳密には特定できないが、オリーブ油やワインを運んだものとして搬入経路や運搬者について考えてみたい。搬入経路については、長崎出土のものは、ポルトガル産の可能性があることから、ポルトガル船が運んだと推測される。大阪のものは、マニラにおいて引き揚げ資料があることから、第一にマニラ経由でスペイン船が日本に運んだ可能性が考えられる。第二に、ポルトガル船が、マカオ経由で運んだ可能性がある。岡美穂子の研究によれば、ゴアから中国(マカオ)行きのポルトガル船の貿易品の中にスペイン産のワインとオリーブ油がみられることから、マカオにはこれらが存在したことがうかがわれる。第三に日本人が直接海外から持ち帰った可能性が考えられる。フィリピンに駐在したモルガの記録にもマニラに来航した日本人がワインを買って帰る記録がみられる。 では、日本においてワインやオリーブ油はどのような需要があったのであろうか。長崎と大阪の出土状況は、キリスト教や貿易商との関わりを示唆しているが、ポルトガル国王とゴアのインド副王の往復書簡である「モンスーン文書」には、17世紀初めの段階で日本司教からミサ用のワインやオリーブ油の俸禄を請求している記述があり、この頃にはキリスト教で行われるミサなどに関連して一定の需要があったことがわかる。また、オランダ商館長の日記には、ワインを長崎奉行へ贈った記録がある。さらにオリーブ油については、18世紀初頭の長崎奉行の記録にオランダの産出品として「アセトウナノ油」(スペイン語でオリーブ油の意)と記され、オランダによって間接的に輸入されていた可能性がある。16世紀終わり頃から18世紀にかけての日本において、ワインやオリーブ油に関して様々な需要があったことが、今回の考古学的発見や文献史料から判明する。 さらに、これらに関連してオリーブ壺を実際に描いたと考えられる南蛮屏風を確認した(出光美術館蔵)。この屏風には、黒船から降り立った南蛮人が細長いに棒の両端に壺をつり下げて歩く様子が描かれているが、この壺のひとつが、ゴギン氏分類のA類あるいはC類に酷似している。さらに、竹を編んだと推測される籠によって運搬している様子が描かれている。一説には黒船来航の光景は、長崎を描いたとも言われ、オリーブ壺が南蛮船によって長崎へ運ばれた可能性を示唆している。 本研究は、16世紀から17世紀にかけての歴史研究に対して以下のような学際的な意義を持つ。第一に、我が国におけるオリーブ壺に関する研究の端緒であり、今後考古学の分野でオリーブ壺の出土が確認され、詳細な分布が明らかになることが期待される。第二に、文献史学から検討されていた東西の貿易品の流通が考古学から具体的に実証されたことがあげられる。第三に、今回の検討から南蛮屏風の歴史資料としての可能性が明らかになったことである。今後、そこに描かれた品々についての実証的な研究が期待される。The newly found olive jars in Japan were most likely manufactured in Spain or Portugal from the late 16<sup>th</sup> century to the 17<sup>th</sup> century, based on the earlier studies. According to the documents and "Nanban screen" depicting the arrival of nanban-jin (Portuguese and Spanish) in Japan, it is said that they were brought to Japan by "Black Ship" and used among Christians and so on. They were archaeologically proven to be traded between the East and the West, and more such olive jars are sure to be found. Furthermore, Nanban screens might have the possibility of use as historical sources; empirical study of painted items is expected in the future.
著者
韓 玲玲 Ling Ling HAN ハン リンリン
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.11, pp.85-95, 2015-03

本論では、北村謙次郎の短篇小説「苦杯」を取り上げる。この作品は北村が1944年に執筆したもので、『満洲公論』に発表されると同時に、「酒頌」というタイトルで中国語に翻訳され、『芸文志』に掲載された。北村は1904年、東京に生まれた。幼少時に家族と共に関東州の大連に渡ったが、大連中学校(のちの大連一中)卒業後、東京に戻り、青山学院、国学院大学に通いながら文学修業を開始した。井伏鱒二、太宰治などと付き合いながら、『文芸プラニング』、『作品』、『日本浪曼派』など多くの雑誌と関わり、日本文壇に確かな足跡を残した。1937年、北村は満洲国の首都・新京に渡った。そこで彼は雑誌『満洲浪曼』を創刊したり、長篇小説『春聯』を執筆したりして、満洲国唯一の職業作家となった。「苦杯」は、北鉄譲渡の影響を受けた白系ロシア人の人間像を描いた物語である。葡萄酒醸造に専念したカズロフスキーは、北鉄譲渡によって商売が不調になり、自分の葡萄酒を愛飲してくれる友人イワンまで失った。しかし、彼は酒への信仰を貫き、妥協せずに憂鬱の日々を送っている。一方、北鉄譲渡によってソ連に帰国したイワンは7、8年の放浪生活の後、カズロフスキー宅に辿り着いたが、すでに酒を鑑賞する能力を失っていた。その再会の場面では、二人は、ただ葡萄酒を飲み続けているだけだった。「苦杯」が創作された1944年当時、満洲国の文化統制によって、文学者はほとんど自由に創作ができなくなっていた。この小説を通して、北村は時代に対する憤懣を語っている。創作意欲があっても小説を書くことができない、その苦しさは直ちに中国人作家たちの共鳴を呼んだ。それまでは対象に距離を置いた観察者の目で創作してきた北村は、この一篇をもって、従来の創作方法を突破した。執筆者という存在をうまく小説の中に溶け込ませ、社会から落ちぶれた白系ロシア人の心理を生き生きと表現することができた。とりわけ、一人の人物の心理動態に焦点を絞っているため、登場人物の人間性に対する観察と、それに対する深い洞察とが、この小説の大きな特質となっている。This paper discusses a short novel by Kitamura Kenjirō entitled "Kuhai" written in the year 1944. It was published in Manchu kōron and simultaneously in a Chinese translated version with the title "Jiu Song" and featured in a Chinese-language journal called Yi wen zhi, attesting the fact that by the time "Kuhai" appeared, it had already drew attention from the Chinese literary world.
Kitamura was born in the year 1904 in Tokyo. When he was a child he moved with his family to Dalian in Kwantung. Soon after completing middle school, he returned to Tokyo, where he started his literary activities while he was still a student at Aoyama Gakuin and later at Kokugakuin University. Together with literary figures like Ibuse Masuji and Dazai Osamu, he got involved with several literary journals such as Bungeipuraningu, Sakuhin, and Nihon roman-ha, and established himself in the field of Japanese literature. In the year 1937, he once again relocated to Changchun (formerly Hsinking, the capital city of Manchukuo) and there he started a journal called Manchuroman and also penned the novel Shunren. With this he became the only professional writer in Manchukuo at that time.
"Kuhai" depicts the life story of a white Russian man whose life was deeply affected by the transfer of the Chinese Eastern Railways (also known as Chinese Far East Railways or Manchurian Railways) from Russian to Japanese ownership. Kozlovck was a vintner who took thirty years to make authentic wine. Nonetheless, due to the business slowdown that resulted from the change in ownership of the Chinese Eastern Railways, his friend Ivan, who was an admirer of his wine, was reassigned back to Russia and with this he lost his good friend. Despite this, Kozlovck never compromised on his love for wine. On the other hand, his lost friend Ivan, after wandering in Russia for seven or eight years, finally made his way back to Kozlovck's house. But, Ivan was not in a position to appreciate Kozlovck's wine any more. When the two old friends met, they could do nothing but continue drinking.
When Kitamura wrote "Kuhai" in 1944, it was a period when there were many cultural restrictions that prevented free literary expression. Hence, it was through this short work that Kitamura expressed his discontent. In other words, he condemned the period when, despite having interest in literary activities, people were not allowed the scope to do so. This resentment was the factor that brought his work so many sympathizers in the Chinese literary world.
Kitamura, who wrote mostly from the perspective of a spectator to that date, broke away from his former writing style and dexterously fused his presence as a writer with the character of his protagonist in this small work. This helped him to express the mental state of the white Russian in the most vivid manner possible. Especially, as his focus was on the psychological state of the characters, hence his critical observations and insights into human nature are the key features of this work.