著者
竹本 寛秋
雑誌
巻号頁・発行日
vol.17, pp.80-85, 2012-09

「新短歌」の提唱者である石原純が、山村暮鳥の詩集『雲』をどのように自説へと接続したのかを問題にした。石原は、音数も用語も自由な新しい「短歌」の萌芽的表現として詩集『雲』をとらえている。石原には〈放置することによって自然に成長する日本語〉という論点があるが、本稿ではそれを川路柳虹の「新律格」の発想と比較し、同質性を明らかにした上で、石原純にとっての詩集『雲』の意味を位置づけた。
著者
竹本 寛秋
出版者
暮鳥会
雑誌
巻号頁・発行日
vol.16, pp.42-55, 2011-09

本稿は、山村暮鳥を「詩を評価する者」の視点から眺め、山村暮鳥の「評価」が持つ「行為」としての意味を明らかにするものである。山村暮鳥における「評価」行為は、「評価の不可能性」と「評価の絶対性の不在」の自覚の上に、それでもなおかつ「詩を選別し、評価する」行為として行われており、評価の理念系と、詩集刊行や投稿詩選別の実践系との葛藤関係をはらみつつ行われるものとしてある。そこを出発点としつつ、山村暮鳥の代表的詩集『聖三稜玻璃』において、山村暮鳥による言及の少なさの原因を推定すると共に、山村暮鳥の「評価言語」の特質と変容を検討した。その結果、山村暮鳥における「評価観」は、「評価の不可能性」の自覚から、大正六年付近を境にして、「大正的」な「普遍性」概念に依拠するものへと変質することが明らかにされた。以上の考察により、山村暮鳥を軸とした、大正期における「評価言語」の様態が明らかとなった。