- 著者
-
真野 俊和
- 出版者
- 特定非営利活動法人 頸城野郷土資料室
- 雑誌
- 頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要 (ISSN:24321087)
- 巻号頁・発行日
- vol.1, no.1, pp.1-25, 2016 (Released:2019-04-20)
- 参考文献数
- 15
日本近世の都市、特に藩政の中心となったいわゆる城下町には、寺町とよばれ、多数の寺院が集中
する地区が設けられていることが多い。本稿で事例としてとりあげた越後国高田もその一つである。
高田は一七世紀初頭、それまで原野またはせいぜい農耕地にすぎなかった場所に突然出現した、完全
人工の近世都市である。その西の一角に寺町が設定され、ある時点では本坊・子院をふくめて一六二
もの寺院が集まっていたと推定される。本稿で論じようとしているのは、寺町の構成や設立過程など
ではなく、高田という町および周辺の村々の社会の狭間に現れた、寺町という地域そのものの性格の
ありようである。城下町全体は武士の居住地、一般町民の居住地、そして寺町という三つの空間に領
域化されており、それぞれに固有の機能を担っていた。このうち寺町のそれを筆者は、Ⅰ信仰・参詣
の対象としての寺町、Ⅱ娯楽の場としての寺町、Ⅲ社会的な福祉機能を担う寺町、という三つの視点
から追究した。すなわち寺町の意義とは宗教に特化した単なる機能分担にとどまるものではなかった。
他の二つの領域がもっぱら、日常を維持するために必要な政治的・経済的目標達成および全体統合と
いう役割を担っていたのに対し、寺町の役割はそれらのどれとも異なっていた。やや抽象的な表現を
とるならば、日常性の過程で生じる諸葛藤の緩和、およびさまざまな制度の機能不全がもたらす危機
的状況の回避、という二点に集約できるであろうと筆者は考えている。