著者
山田 悟郎
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1996

北海道の続縄文文化は、7世紀後半には土師器をもった農耕文化の影響のもとに擦文文化に変容する。土器からはそれまで使用されてきた縄文が消え、住居の構造は方形でカマドをもったものとなり、鍛冶の技術や機織りの技術、雑穀栽培の技術などが導入され、生活様式が大きく変革した。擦文文化の経済基盤は河川でのサケ・マス魚とされてきたが、最近の調査では各種の雑穀を栽培する畑作農耕を行っていたことも明らかになっている。畑跡はまだ確認されていないが、道内では7世紀後半から12、13世紀までの34遺跡からアワ、キビ、オオムギなど16種類の栽培植物種子が出土したほか、鉄製の鍬先,鎌などの農耕具が出土する。畑作農耕は7世紀後半から9世紀中頃までは石狩低地帯以南の地で展開されたが、擦文文化の集落が石狩低地帯以北や以東に進出する9世紀後半頃から12、13世紀には、温暖な気候を背景としてほぼ道内各地で畑作農耕が展開された。ただ、石狩低地帯以南では7〜8種類の作物がみられるのに対し、以北では多くても4〜5種類と作物の種類は少ない。また、10世紀以降の遺跡から出土したオオムギに違いがみられる。石狩低地帯以南のオオムギは東北地方北部にその系譜が求められ、以北のオオムギは大陸沿岸地方の鉄器文化で栽培されていたものにその系譜が求められる。大陸系オオムギの導入にはオホーツク文化の集団が関与していたことが明らかになった。擦文文化の集団は河川や海洋での漁業や海上・陸上での狩猟も行っていたことは、出土した魚骨・獣骨から明らかで、畑作農耕や漁労・狩猟での産生物をその経済基盤としていた。狩猟・漁労産生物の一部は、自ら産生できない鉄器などを導入した対価となっていたものと考えられる。海運による交易経済が発展した12、13世紀には、擦文土器や竪穴住居が使用されなくなり、擦文文化からアイヌ文化へと変容する。

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