著者
藤井 律之
出版者
京都大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2003

今年度は、前二年度におけるデータをもとに論文を作成したので、その要旨を以て概要に代える。魏晋南北朝時代、とくに東晋から南朝では、官職の清濁が選挙の基準であり、官品が官人の地位を表象しなかった。そのため、官職の兼任によって、官僚の地位を昇進させる場合があった。官職の兼任は、従来注目されてこなかったが、侍中領衛(侍中が左右衛将軍を兼任すること)に代表される、侍中と内号将軍(西省ともよばれる)の兼任は、兼任によって地位が異動することを示す典型的な事例である。侍中は、尚書令へと続く最上級官僚の昇進経路のスタートにあたり、南朝では、侍中→列曹尚書→吏部尚書、中領軍・中護軍→尚書僕射、領軍・護軍将軍→尚書令という昇進経路が確立していた。それと並行して、侍中→侍中領五校尉→侍中領前軍・後軍・左軍・右軍将軍→侍中領驍騎・游撃将軍→侍中領左右衛将軍(→尚書令)という序列が形成されていた。これらのうち、侍中と驍騎・游撃将軍以下の内号将軍の兼任は、疾病による任命が多いことから、職掌は期待されておらず、官人の地位の上下を示すだけであった。それは、宋中期以後、驍騎・游撃将軍の定員が無くなり、必ずしも実兵力を統括しなくなったこと、また、侍中も才能ではなく、家柄や外見を基準に選ばれるようになっていたからである。侍中による序列が形成された理由は以下のように考えられる。1:東晋末から宋初に、侍中と左右衛将軍を兼任した人物が政局を左右し、そのため侍中領衛が高く評価されるポストとなった。2:侍中が昇進先にあたる列曹尚書よりも清とみなされ、当時の官人は昇進経路を逆行してでも侍中に任ぜられることを望んだため、侍中と他の官職を兼任させることによって官人の地位を昇進させることが行われ、侍中領衛へとつづく、侍中と内号将軍の序列が形成された。3:散騎常侍が濫発された当時において、代替として内号将軍を兼任することが当局に歓迎された。

言及状況

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こんな研究ありました:魏晋南朝における遷官制度(藤井 律之) http://kaken.nii.ac.jp/ja/p/15720161

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