著者
佐川 英治
出版者
岡山大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2004

北魏の正史『魏書』は孝文帝の時代を北魏史の頂点とする歴史観で書かれている。しかし、本研究ではこの歴史像がある目的をもった一面的な歴史像であることを明らかにしてきた。本年度はこれを受けて北魏の建国から洛陽遷都までの百年間をその都であった平城に焦点を当て見直す研究をおこなった。すなわち、平城の北には、平城の規模をはるかに上回る広大な禁苑「鹿苑」が広がっていた。実はこの鹿苑は広大な放牧地であって、そこには無数の牛羊馬が放牧され、毎年春に陰山方面へ放牧に出かけ、秋に返る習慣があった。皇帝もしばしばこのルートにしたがって行幸し、春と秋には遊牧の祭祀をおこなった。当時、陰山は自然が豊かで多くの動物が暮らす場所であった。北魏は征服戦争で得た人民を平城周辺に移住させ、彼らに土地と耕牛を給する「計口受田」といわれる方法で国力を充実させていくが、それを可能としたのは陰山から毎年大量に供給される豊かな動物資源であった。ここに平城の地政学上の利点とそれまでの五胡十六国が持ち得なかった北魏の国力の源泉がある。しかし、やがて動物は減少し、皇帝は行幸や狩りをしなくなり、平城周辺では牛不足が深刻となる。これにしたがって鹿苑も放牧地から宴遊をおこなう中国的な禁苑へと姿を変えていった。『水経注』には孝文帝の時代、陰山から樹木が消えていたことが記されており、過放牧や森林の伐採がその原因と考えられる。この結果、孝文帝は平城を放棄し洛陽へ遷都するとともに、漢化政策をおこなって新しい権力基盤を求めざるを得なくなった。本研究では以上のことを明らかにすることで、孝文帝の漢化政策や洛陽遷都を北魏の発展の上に位置づける従来の見方に対して、環境の危機の上に位置づける新しい歴史像を提起した。また、洛陽遷都後の北魏史については造像銘を用いた研究の可能性に注目し、その成果を書評の形で示した。

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