- 著者
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松本 邦彦
- 出版者
- 山形大学
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 2017-04-01
今期は朝鮮学校と外国人教育をめぐる基礎的な資料の収集とともに、戦前期の植民地統治の一翼を担い戦後も言論界で活躍した人物でありながら、あまり注目をあびてこなかった鎌田澤一郎を中心に資料収集を進めた。まだ概略にとどまるが、鎌田の生涯と業績について以下にまとめておく。鎌田は1894年(明治27年)生まれ、学校教育は高等小学校までで、1979年に没するまで、公職や研究職、教育職には就かなかった経営者、ジャーナリストである。郷土徳島で文化活動を始め、兵役後に経済界に進出、さらに上京して出版業に進む。文化人や経済人との交友を深める一方で、鶴見祐輔、後藤新平、また鐘紡経営者・武藤山治の政界浄化運動を応援。鶴見を介して陸軍大臣時代の宇垣一成の側近となり、1931年の宇垣の朝鮮総督赴任とともに朝鮮に渡る。総督顧問をしつつ独自の研究所を設立し、講演や著作にて宇垣の「南棉北羊」政策を支持、宣伝をおこなう。1936年に宇垣が総督を辞したのちも朝鮮にとどまり、総督府支配の一翼を担ったが、南次郎総督らの創氏改名、内鮮一体政策を批判したことがあり、後年の鎌田は、これもあって戦後も朝鮮人からの感謝ありと誇っていた。敗戦後に鎌田はほぼ無一文で引揚げたが、文筆で宇垣の政界進出を支持する一方で朝鮮戦争を機に在日朝鮮人問題や日韓問題で精力的に発言し、李承晩の反日政策を批判、そしてその後の朴正煕の維新革命やセマウル運動を支持した。戦後の鎌田の主張が在日朝鮮人政策に与えた影響はまだ判然としないが、朝鮮支配が「宥和と培養」であったという主張(1950年『朝鮮新話』など)が、日韓交渉を決裂させた1953年の久保田発言に影響していた可能性が判明し、彼の戦後日韓政策への影響力は意外に大きい可能性も出てきている。