著者
渡邉 裕美子
出版者
早稲田大学
雑誌
奨励研究
巻号頁・発行日
2011

屏風歌は平安初期の10世紀初頭から11世紀半ばまでの約150年間を最盛期として、その後衰退して使命を終えたというのが今日の和歌史の定説である。しかし、天皇の代替わりに作成された大嘗会屏風和歌は、15世紀に応仁の乱で中絶するまで作られ続け、一般の屏風歌も、衰退から約130年を経て復活し、文治6年(1190)の『女御入内屏風和歌』を皮切りに、いくつかの大規模な屏風歌・障子歌が新古今時代を中心に作られ、その後、中世の間も途切れることはない。本研究では「使命を終えた」とする定説をくつがえすべく、中世・近世期までを視野に入れて屏風歌の史的展開を追い、和歌史における位置づけを明確にすることを目指した。研究計画に3点挙げたうち、「平安初期屏風歌の衰退の原因と中世初期における復活の契機」の検討については、大規模屏風歌が権力の象徴として機能していたこと、復活の契機もまた、かつての権力の復活を願う摂関家の復古思想によることを明らかにした(『歌が権力の象徴になるとき-屏風歌・障子歌の世界-』平成23年、1月の刊行で年度としては前年度)。同時に、平安時代の屏風歌・障子歌の衰退期である院政期には、屏風のような大きな絵ではなく、小さな歌絵が盛行したことも明らかにしたが、歌絵には絵画や工芸品だけでなく装束の例もある。その一例が建春門院中納言著の『たまきはる』に見える。そこから派生した問題として、建春門院中納言の事蹟を追った論考を発表した。中世の屏風歌復活後にその社会的な意味に大きな関心を示し、大規模屏風歌・障子歌を催しているのは後鳥羽院で、そこで歌人として、また院の意を汲んで全体の調整者として活躍したのは定家であった。後鳥羽院主催の名所障子歌『最勝四天王院障子和歌』は、日本国全体の統治の象徴として編まれている。一方、定家の息為家には、ごく個人的な依頼による屏風歌が二種残されている。そのうち『祝部成茂七十賀屏風歌』は近江国のみの名所屏風歌で、『最勝四天王院障子和歌』と対照して考えると、名所の選択・詠歌方法などに私的性格が明確に現れている。この屏風歌の問題については、近時、発表予定である。また、中世に入ると、歌人をめぐる歌壇状況や詠歌機会などに変化が見られ、そのことが天皇周辺での屏風歌制作にも影響を及ぼしていると考えられる。後鳥羽院時代に見られたような精鋭歌人による競作後、厳しい撰歌が行われるような例は見られなくなり、屏風歌の制作により協調と融和が強調される。こうした様相は、中世に盛んになった歌会様式である続歌と共通する。続歌の成立や特質についてはまだ不明な点が多いため、屏風歌との関係を論じる前に続歌の成立についての論考を発表した。

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