著者
李 徳方 劉 海宇 Li De-fang Liu Hai-yu
出版者
国立大学法人岩手大学平泉文化研究センター
雑誌
岩手大学平泉文化研究センター年報
巻号頁・発行日
vol.1, pp.29-35, 2013-03-01

平泉山荘は唐代の宰相李徳裕(787-849)が洛陽郊外に建てた別荘である。山荘は私邸の郊野庭園の特徴を備え、景勝は当時最も優れていたとされている。『旧唐書・李徳裕伝』に「東都伊闕の南に平泉別墅を置き、清流翠筱あり、樹石奇幽なり」という。康駢『劇談録』に「李徳裕の東都平泉荘、洛城を去ること三十里、卉木台榭あり、仙府に造るが如し。虚檻対引し、泉水縈回すること有り」とある。張洎『賈氏談録』に「平泉荘周囲十里にして、台榭百余所を構ふ」と見える。李徳裕『霊泉賦』に「余西嶺に居り、平壌より泉を出だし、広さ尋を逾えずして、深さ則ち尺を盈す」という。唐末宋代以降、山荘は廃れ果てて、後人は遂にその所在を求めがたい。今の伊闕(龍門)西南梁村溝村付近は、史書に記載する山荘の位置と基本的に一致し、世にここは山荘の旧跡と言い伝えられ、園林史学者の王鐸先生はそのために山荘の位置示意図を描き出した。それでは、今の梁村溝一帯は果たして山荘の旧跡であるのか。手がかりとなる歴史遺跡がある程度残されているのか。これらの疑問を抱えて、2012年の冬日に筆者たちは梁村溝付近で現地踏査を行った。ここで今回踏査の収穫を簡略に記す。
著者
劉 海宇 Liu Hai-yu
出版者
国立大学法人岩手大学平泉文化研究センター
雑誌
岩手大学「平泉文化研究センター年報」 = Hiraizumi studies (ISSN:21877904)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.85-93, 2014

中国古代の庭園を分類する場合、一般的には皇帝直属の大規模な皇家苑囿と貴族・富豪の私邸庭園とに大別される。『史記』秦始皇本紀によれば、秦の始皇帝は戦国諸侯を滅ぼすたびに、その宮室を模して首都咸陽の北の山麓に宮殿を建てたという。天下を統一すると、さらに渭水を中心に、離宮別館・苑囿台池を造営し、中でも蘭池宮・上林苑・阿房宮等は現在においても有名である。ところで、始皇帝の贅を尽くして造営した苑囿に対して、秦代の官僚や富豪の私邸庭園については、将軍王翦の「美しき田宅園池を請ふこと甚だ衆し」を除けば、史書にほとんど記録を確認できない。いわんや秦代の庶民の私邸庭園においておやである。もとより資料の制限により、従来の研究では秦代の宮廷苑囿に関する議論は多く見えるが、秦代の私邸園池については研究が少ないのが現状である。 幸いにも、近年、中国各地から秦代の簡牘資料が相次いで出土しており、秦代の研究ではこれらの簡牘の利用なくして進展は考えられないと言えよう。秦代の簡牘資料では、「数術」と分類される一群がある。「数術」とは、『漢書』芸文志では「太史令の尹咸をして数術を校せしむ」の顔師古注に「占卜の書なり」とか、「凡そ数術百九十家、二千五百二十八巻。数術は、みな明堂・羲和・史卜の職なり」とあるように、古代の天文・暦法・占卜等に関する学問のことである。「数術」の書籍には天文・暦譜・五行・蓍亀・雑占・刑法の分野が含まれており、出土した「数術」簡牘にもこうしたすべての分野が包括されている。それでは、秦代の「数術」簡牘文献に官僚や庶民の私邸園池に関する資料があるのだろうか。 本稿では、出土した秦代の「数術」簡牘に見える池を中心とする私邸庭園について、関係資料を収集・分析することによって、秦代の私邸庭園の地割や池の性格を明らかにし、あわせて成立年代が平安時代末期とされる東アジアの最古の造園書『作庭記』における造園の禁忌思想と比較してみたい。
著者
佐藤 嘉広 Sato Yoshihiro
出版者
国立大学法人岩手大学平泉文化研究センター
雑誌
岩手大学「平泉文化研究センター年報」 = Hiraizumi studies (ISSN:21877904)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.51-68, 2014

平成24 年(2012年、以下西暦表記)8月、岩手県教育委員会では岩手大学等と共同で「天地之中にある登封の歴史遺産群」(Historic Monument of Dengfeng in"The Centre of Heaven and Earth"、以下、「登封」)に関し、現地調査を実施した。 「登封」は中国河南省に所在する資産群で、2008 年に推薦書が提出され、2010年の第34 回世界遺産委員会(於:ブラジリア)において、世界遺産一覧表に記載されている。この期間は、「平泉の文化遺産」(以下、「平泉」)が記載延期から記載に向けて作業を進めていた期間と重複し、「登封」が記載に至る過程は「平泉」にとって大いに参考とすべき内容があったものの、当時は「平泉」そのものの推薦書改定作業に追われたことから、十分な情報収集を行いえなかったものである。 2011年6月、「平泉」は「平泉-仏国土(浄土)を表す建築、庭園及び考古学的遺跡群-」として記載された。当初推薦しながらも記載されていない資産の一部については、拡張による追加を目指した取り組みを進めた結果、2012年9月、「平泉」は再び暫定一覧表に記載された。 今後は、暫定一覧表記載内容をベースとして、「平泉」の新たな価値証明を行っていくこととなるが、その際、「登封」における記載過程を調査する必要がある旨の指導を文化庁よりいただいたものである。
著者
三浦 謙一 Miura Kenichi
出版者
国立大学法人岩手大学平泉文化研究センター
雑誌
岩手大学「平泉文化研究センター年報」 = Hiraizumi studies (ISSN:21877904)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.41-60, 2013

奈良国立文化財研究所は1998年に『発掘庭園資料』を刊行した。古墳時代の祭祀遺跡の一部を含め飛鳥時代から明治時代までの全国の発掘庭園273件をほぼ網羅したもので、日本庭園史における基礎資料となっている。同書には、「発掘調査によって発見された庭園遺構を『発掘庭園』と呼んでいる」とある。発掘庭園はその後も増加しており、独立行政法人奈良文化財研究所はホームページ上に発掘庭園データベースを公開し、『発掘庭園資料』刊行後に発見された発掘庭園等を追加登載している。 岩手県西磐井郡平泉町は12世紀に奥羽に権勢を誇った平泉藤原氏が拠点とした都市平泉の遺跡が現在の市街地と重なりながら数多く残されている。発掘庭園データベースに登載された平泉町所在の発掘庭園は10件で、それらには03001~03010のコード番号が付されている。志羅山遺跡庭園遺構(コード番号:03008)が12世紀よりも下がる以外は平泉藤原氏の時代、12世紀に属する。 平泉町における庭園調査の歴史は古い。1952年、文化財保護委員会によって無量光院跡が発掘調査され、『吾妻鏡』の記述のように宇治平等院を模していることが確認された。1954年からは、藤島亥治郎氏を中心とする平泉遺跡調査会は観自在王院跡と毛越寺の学術発掘調査を5か年にわたって行い、浄土庭園の実体に迫る成果をあげた。1972年度からは整備を目的にした発掘調査が観自在王院跡で実施され、舞鶴が池と呼ぶ園池を中心にした史跡公園として整備・活用されている。同様に、毛越寺庭園においても復元整備等を目的に1980年度から10か年をかけて発掘調査され、大泉が池の全面石敷の洲浜や中島の調査、背後の山から引かれた遣水の発見などの大きな成果をあげ、いま私たちの眼前に12世紀に構想された浄土世界を見せてくれる。 観自在王院跡と毛越寺の発掘調査に引き続いて、平泉遺跡調査会は1959年から10か年にわたって中尊寺境内の発掘調査を行い、境内の伝三重池跡と伝大池跡もその対象となった。大池はいわゆる『中尊寺建立供養願文』の記述に深く係わる重要な遺構であり、平泉町教育委員会は1997年度から7年間、また2007年度から現在まで内容確認発掘調査を継続している。さらに、無量光院跡は2002年度から内容確認を目的にした発掘調査が開始され、現在も継続されている。北小島やそれと本堂が建っていた西島を繋ぐ橋跡、導水溝が検出されるなど、多くの貴重な新知見が得られている。また、1980年代末には平泉藤原氏の政庁と目される柳之御所遺跡の中心域から園池が発見され、以降、町内の緊急発掘調査の増加に伴い平泉藤原氏の時代の園池の検出が相次ぎ、新たな資料が蓄積されてきている。 無量光院跡と観自在王院跡、毛越寺、中尊寺、それに金鶏山を加えた5カ所の資産は、2011年、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として世界遺産に登録された。岩手大学平泉文化研究センターは平泉の発掘庭園を研究テーマの一つとしている。本稿は、平泉の発掘庭園の発掘調査履歴を一覧で示すとともに園池に係る発掘調査成果の概略を紹介するものである。