著者
御手洗 昭治
出版者
札幌大学
雑誌
比較文化論叢 : 札幌大学文化学部紀要 (ISSN:13466844)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.A41-A54, 2000-09-30

小稿では国際交渉による紛争解決の視点から、(1)インドとパキスタンが世界の潮流に逆らってまでなぜ核実験を行ったのか、(2)また他の国際社会が両国の挑戦にいかに対応すべきなのか、(3)加えて他の米ロを含む五大核保有国がCTBT著名問題や不核拡にどう対応するのかについて、元米国国務長官であったヘンリー・キッシンジャーや他の外交交渉の専門家達の見解も含め、ナショナリズムにも照らし合わせながら若干の考察を加えてみたい。なお、2000年3月21日にニューデリーで行われた歴史的接近へのファースト・ステップといわれた「米印首脳会談」に関するインド・パキスタン戦略交渉史に関しては、昨年オランダの国際政治心理学会で発表した内容も含め、他の学会誌等で論陣を張ってみたい。
著者
金沢 英之
出版者
札幌大学
雑誌
比較文化論叢 : 札幌大学文化学部紀要 (ISSN:13466844)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.53-81, 2004-03-31
著者
高瀬 奈津子 江川 式部
出版者
札幌大学
雑誌
札幌大学総合研究 (ISSN:18848982)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.44(一)-27(一八), 2014-03
著者
桑原 真人
出版者
札幌大学
雑誌
産研論集 (ISSN:09169121)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.155-159, 1993-12-25
著者
伊藤 義郎
出版者
札幌大学
雑誌
産研論集 (ISSN:09169121)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-13, 1993-03-30
著者
内田 實
出版者
札幌大学
雑誌
札幌大学女子短期大学部紀要 (ISSN:02888211)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.21-29, 1989-02-28

日本における人口集中地区で10万人以上の都市は142あり,100万人以上の都市は11である。北海道は東京,横浜,大阪,名古屋に次ぐ第5位の札幌と,10〜30万人の6都市があるにすぎない。本州の都市の成立は近畿の古代都市を除けば,中世の城下町,港町に起源をもつ都市が多いのに対し,北海道の都市は,その発展過程において事情が著しく異なる。ここでは北海道総人口の27%を占める札幌市の成立過程において,計画的植民都市として建設された札幌が,現在のプランにならざるを得なかった社会的背景と,現市域に編入されている旧町村の開拓環境について考察した。明治初期の北海道の人口を洪武政夫明治8年版によってみると,人口1万人以上の都市80(全国)のうち北海道は函館と福山(現在の松前)2ヵ所のみで,総人口17万人のうち渡島・桧山・後志に76%が集中し,札幌は1,785人,同12年でも2,910人に止まる。札幌の都市プランからみると,明治2年北海道と改め,10月鍋島直正に代った東久世通禧が開拓使長官となって箱館へ到着,11月判宮島義勇は札幌の地へきて石狩指図によって本府敷地を定めた。その場所は旧札幌図の用水沿い銭函道の交点付近で,この用水は大友亀太郎(幕臣箱館奉行付)が,石狩開拓のため慶応2年伏籠川流域に元村を建設したときの用水で,御手作揚が康午1の村〜3の村の原形となる。開拓使の本庁作りは島の独走で中断をよぎなくし,同4年判官岩村により市街地割が継続された。大友堀の関門の常に市街地,北に官庁,その間に60間(実際は58間)の防火帯(現在の大通公園)を設け,本庁周辺の道路は20間,その他15間半,13間半,市街は方60間に11間道路をつけた。本庁の西側は公園と玄関からなり琴似村へ接続する。これを京都などの方格都市を範としたものとの説があるが,1町60間四方の区画は,殆んどの日本の都市を支配する地割で,京都の場合40丈となるから一致せず,道幅においても相違する。また新しいプランにも拘らず磁北から1度5分,真北から10度15分西寄する。この原因は大友堀とそれに併走する東側道路を基線としたことにあった。屯田兵村は明治8年琴似に始まり,8年山鼻,発寒,11年江別,18年野幌,20年新琴似,22年径路と,32年条令廃止まで24兵村が全道に設けられるが,その7兵村が札幌を囲繞する。山鼻兵村の道路は旧札幌区に接続するにも拘らず,札幌市街より5度6分傾けて4度45分西寄する。その背景には兵部省(薩摩・長州)と開拓使(佐賀)との軋轢が介在し,中央政庁の内部関係と同様な政争の愚が札幌の都市プランに反映したからに外ならない。現在の都市の道路・区画のあり方が,その時代という以上にその時点でのプランに反映していた植民地ならではの遺産であった。また御雇外国人による近代的な都市プランヘの影響などといわれるが,その痕跡もないこと,及び札幌に移住した人々の出身地の特長等についても若干付言した。
著者
御手洗 昭治
出版者
札幌大学
雑誌
札幌大学総合論叢 (ISSN:1342324X)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.199-211, 2007-03

2006年7月4日,北朝鮮が七発のミサイルを発射した。国連安全保障理事会が北朝鮮非難決議を採択。三ヵ月後の2006年10月3日,北朝鮮は核実験を予告し,10月9日に地下核実験を実施したと発表した。その後,再度,国連の安全保障理事会が開催され核実験非難決議履行を採択(朝日,読売,毎日,北海道新聞各紙)。北朝鮮は挑戦的な姿勢をくずさず,北朝鮮の政権に対して圧力を増大させることは戦争行為であることを主張した。北朝鮮を除く六ヵ国協議参加国も電話で対応を協議した。北朝鮮の核問題をめぐっての多国間交渉は,崩壊の危機に直面しアジア太平洋地域の安全保障を揺さぶる事態となった。多国間交渉の六ヵ国協議の核心は,元米国務長官であったヘンリー・キッシンジャーも指摘するように米朝の交渉担当者が交渉するか否かにあるのではない。特に米国政府の意向が成果を左右するような問題に対しては,米国は平壌との二国間交渉を進展すべきである。また,ジョエル・S.ウィッツなどのように,多国間交渉と二国間交渉を織り交ぜ,CTR (Cooperative Threat Reduction)方式の紛争解決法を見出すべきという意見を持つ国際問題の研究者も存在する。いずれにしても,多くの課題が多々残されてはいるが,優先すべきは2005年9月の共同声明に原則が盛り込まれた双方の行動に関しての時期と交渉の内容を具体的に書き出し,それとともに北朝鮮による核兵器放棄のタイムテーブルと安全保障と一体となった経済支援計画を形にすべきであろう。以下では,2002年から2006年の12月8日までの六ヵ国協議の交渉プロセス,並びに北朝鮮の交渉戦略,CTR方式交渉・紛争解決法についての考察を加えてみたい(2006年12月20日)記。