- 著者
-
飯島 千秋
- 出版者
- 横浜商科大学
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 1996
江戸幕府の御金蔵には、非常用金庫としての奥御金蔵のほか江戸城蓮池御金蔵、大坂城御金蔵があり、二条城・駿府城・甲府城・佐渡などにも金蔵が置かれた。奥御金蔵は、はじめは江戸城天守閣下の穴蔵であったといわれる。正式な建造年は不明であるが、享保7年の奥御金蔵修復記録の存在から、それ以前の建造であることは間違いない。奥御金蔵は、留守居預りとされたが、扉や錠前の封印は勝手掛り老中や勘定奉行、金奉行の三者が行った。奥御金蔵には金銀の分銅や金銀貨幣が貯えられたが、もっとも多い時で金・銀分銅がそれぞれ20個と206個、金銀貨幣が171万7000両余であった。しかし、それらは幕末期には使い果たされた。なお、奥御金蔵における金銀貨幣・分銅の出納状況を検討した結果、奥御金蔵の役割・機能は、(1)臨時支出費の供給および余剰金の貯蓄、(2)金銀比価の調節、(3)貨幣改鋳原料の供給、の3つであることが判明した。なお、奥御金蔵以外の各御金蔵には、「除金」と称する若干の貯蓄金銀が保管されていた。一方、蓮池御金蔵は、収納した金銀を保管する元方御金蔵と支払のための金銀を保管する払方御金蔵とに分かれていた。担当する役所も二つに分かれ、金奉行も二手に分かれていた。また、役所経費も別々に支給された。両者は文政3年に統合されたが、その理由は、いったん支出された金銭の返還をめぐる取扱いの混乱を回避することにあった。蓮池御金蔵における金銀出納においては、「庭帳」とよばれる前日の事前打ち合わせ、「御金手形」の授受、記帳、金銀管理など、非常に煩雑な手続きがあった。さらに、寛政3年、文化5年には蓮池御金蔵内での金銀の仕訳方法や帳簿記載方法に変更が加えられ、天保10年には、帳簿(「勘定帳」と「有高帳」)の記載数値の不一致にかかわる原因究明を柱とする「御金蔵役所向御改革」が実施された。