著者
内田 雅克
出版者
The Gender History Association of Japan
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.75-84, 2012

アジア・太平洋戦争期、『少年倶楽部』はジェンダー・イデオロギー生産装置として機能し、軍人を男のモデルとして「男らしさ」を連呼し、「少年」をウィークネス・フォビアの包囲網に囲み、そして戦場に送り続けた。やがて敗戦とともに、『少年倶楽部』は、その薄い冊子に平和と希望を語り始めた。だが、その厚さと同様、戦前のあの勢いは全く見られなかった。<BR>少年には希望や平和・反戦が語られるなか、戦前に野球を愛した男たちは早くも動き出し、GHQの後押しを受けながら次々と野球の復活を実現した。GHQの軍人、日系アメリカ人、プロ野球や学生野球を導く男たちには、それぞれの野球に対する思いがあった。そして野球復活のプロセスのなかで、精神野球のイデオローグ飛田穂洲を中心に、野球少年の美しさ、純情、さらに国家の再建を彼らに託す声が聞こえ始めた。<BR>やがて少年向けの野球雑誌が誕生し、飛田をはじめ野球に「少年」が学ぶべき「男らしさ」を見出す男たちは、戦い・団結・仇討の精神を、そしてそこに映る至極の少年美を語った。再開した高校野球の球児は、かつて夭折へと導かれた少年兵とその姿を重ねた。少年雑誌が見せたのは、「軍人的男性性」の復活といえよう。戦闘的な「男らしさ」は、一見平和を象徴する野球というスポーツを媒体とし、『野球少年』のような少年雑誌のなかで再びその姿を見せ始めたのだった。<BR>もちろん、少年雑誌が見せた復古的なマスキュリニティがかつてのヘゲモニックな地位に返り咲いた訳ではない。ジェンダーの境界線が揺さぶられ、決定的な男性モデルが喪失した占領下という時代は、複数のマスキュリニティーズの出現を可能にしていた。歴史的文脈において、それらを読み解いてゆくのが本研究のテーマであり、本稿はその第一章である。
著者
宋 連玉
出版者
The Gender History Association of Japan
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.5-22, 2013

朴正煕独裁体制の崩壊には70年代の女性労働者の闘いが大きな役割を果たした。1980年代には70年代の民主化運動の潮流を受けて、知識人を中心とした女性運動が幅広く展開され、民主化運動の一翼を担った。<BR> 1987年の民主化宣言と同時に、女性諸団体を統括する韓国女性団体連合が結成され、男女雇用平等法の実現にこぎつけた。<BR> 1990年代に入るとさらに制度的民主主義が進捗、ジェンダー政策においても、北京の世界女性会議の精神を受け継ぎ、性差別撤廃のシステム作りを推進した。<BR> 1987年に民主的な憲法が採択され、5年ごとの直接大統領選挙が決まると、女性たちは大統領選挙を活用して、候補者に女性政策を選挙公約に掲げるように圧力を加えた。<BR> それが功を奏し、金泳三政権(1993~1997)では女性発展基本法の制定、金大中政権(1998~2002)では女性政策を主管する女性部が創設され、第1代、第2代長官に女性運動のアクティビストが抜擢された。また2000年には女性議員数のクォーター制が導入され、5.9%から2012年には15.7%にまで女性議員比率が伸びた。同じく女性公務員もクォーター制導入により飛躍的に伸びた。<BR> 1962年から展開されてきた家族法改正運動も民主化以後に大幅改正され、2005年には遂に戸主制撤廃にこぎつけた。女性の再婚禁止期間の廃止など、日本の家族法より先行する内容も盛り込まれた。<BR> 2004年には性売買に関連する二法が制定され、性売買が不法であるという認識を確立した。<BR> ジェンダー主流化のための制度的保障はある程度なされたが、残された課題も多い。IMF経済危機を克服するために進めた構造改革は結果的に貧富の格差を大きくし、とりわけ女性間の格差を拡大し、非正規雇用の女性たちに負担を強いている。<BR> また、南北分断による徴兵制の維持が、性差別是正の妨げとなっている。兵役義務を果たした男性に公務員試験受験で加算点を与える制度は1991年に廃止されたが、保守政権のもとで再びこれを復活する動きがある。
著者
土佐 桂子
出版者
The Gender History Association of Japan
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.23-38, 2013

本稿は、ミャンマーの民主化運動を1988年の民主化運動勃発から現在に至るまで続く民主化プロセスととらえ、この一連のプロセスを、ジェンダー視点からとらえなおすことが目的である。民主化運動勃発時期には、まず一党独裁政権をいかに止めるか、民主主義をいかに育てていくかに重点が置かれ、特にジェンダーに関する議論は生じていない。ただし、ジェンダー視点が重要でないわけでなく、軍事政権時代に入り政府はミャンマー母子福祉協会、ミャンマー国家女性問題委員会等の女性組織を作り、重職に軍人の妻たちを配置した。これはアウンサンスーチーをはじめ国民民主連盟(NLD)らの女性動員力を意識し、その取り込みが図られていたことを示す。一方、NLDはスーチーの自宅軟禁や党員の逮捕など厳しい弾圧のなかで、情報発信や影響力は限られたものとなりがちであった。これを補っていたのが、亡命した民主化運動家、元学生たちが海外で作った女性団体と考えられる。彼らは出稼ぎや国内から逃れてきた女性を支援しつつ、国際社会と国内に情報と見解を発信してきた。2000年代に入ると、こうしたディアスポラによる外部団体や国際NGOとの連携で、ススヌェという村落女性が政府関係者を告訴し、政府への法的な抵抗が行われた。また、国内でも仏教を核とする福祉協会など、草の根レベルからのNGOや緩やかなネットワークが形成され、軍事政権下で手薄になったとされる福祉政策、特に女性、子供、貧困者や災害被害者等弱者支援を補完したと考えられる。一方、テインセイン大統領に率いられる現政権は次々に改革を行い、検閲制度が撤廃され、言論の自由も相当確保された。また、補欠選挙にNLDが参加し、アウンサンスーチーをはじめ女性議員が増加し、女性閣僚も誕生した。今後、スーチーが参加の意向を示す次期大統領選の行方はジェンダーという観点から極めて重要である。また、前掲草の根レベルのネットワークやディアスポラによる女性団体の活動を、今後国内のジェンダー政策がどれほど組み込めるかも課題となろう。
著者
嶽本 新奈
出版者
The Gender History Association of Japan
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.43-53, 2011

開国以降に海外へ出稼ぎに行った女性たちを「からゆき」と総称するが、「からゆき」の渡航に際してどのような人間が関わっていたのかを当時の九州メディアである『福岡日日新聞』、『門司新報』、『東洋日の出新聞』3紙を用い、主に「密航婦」検挙に関する記事から渡航幇助者を抽出したうえでジェンダーと役割を検討した。その結果、渡航幇助者の多面的なネットワークと、そこでの男女の役割の異同が明らかになったが、まず、渡航幇助の役割上では周旋業と国外就航船乗船までの宿泊場所提供に関しては男女の別なくどちらも役割を担っていた。一方、ジェンダー的役割に注目すると、「からゆきさんあがりの誘拐者」が自分の身をもって経済的に「成功」した実例とすることで渡航を促す役回りであったり、奉公口探しは主に同郷出身の同性に依頼するという縁故利用の習慣によって、女性という〈性〉が機能する役割があったことを確認できた。こうした属性は個々に独立したものではなく重なることもあり、女性たちが〈出稼ぎ〉目的の渡航をする際のネットワークの端緒にこのようなジェンダー的役割が組み込まれていたからこそ、数多くの女性たちが海を渡っていったといえる。<BR>このことは誘拐者とは男性であり加害者であり、「からゆき」とは女性であり被害者であるといった一面的な捉え方を排すが、同時に、女性がいかなる役回りで渡航幇助に関わっていたのかを見極める必要がある。女性もある種の加害性を帯びているのかに関しては、紙面の都合上、表象レベルにおいて新聞報道が男性幇助者と女性幇助者とでは異なり、とりわけ「からゆきさんあがりの誘拐者」は自身の過去を別の密航婦に引き継ぎしているに過ぎない受動的な主体として表象されており、その点で女性は女性の抑圧者になりきれていないことを指摘するに留めておく。
著者
王 丹凝 王 政 徐 午
出版者
The Gender History Association of Japan
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.45-56, 2014

要旨中国女性学協会(CSWS)は非営利団体として1989 年以来、中国のジェンダー研究および女性学の発展に積極的に関わってきた。CSWS は世界中の優れた研究者の協力を得て学術的資源を蓄積し、ジェンダー理論、フェミニスト実践および女性開発のフェミニスト批判の議論を中国本土に紹介してきた。またフォード財団やヘンリー・ルース財団など著名な財団による資金援助の下、本土とディアスポラのフェミニスト研究者やアクティビストらの情報交換や相互の学びをサポートしてきた。本論は、トランスナショナル・フェミニズムの枠組みを通じてCSWS の経験を理解し、その歩みを振り返る。第一に、国家の関心事がいかにグローバルおよびトランスナショナルな性質を持つのかを考察する。第二に、国境横断的な経験がいかにディアスポラと本土の中国人フェミニストたちのアイデンティティの一部を構成するようになったかを論じる。第三に、最も重要な課題として、ローカルな利益とグローバルな重要性の両方を備えた社会活動・社会運動としてのCSWS の経験がいかに重要な国際的協働の事例であるかを検討する。「大きな出来事や変化過程は本質として確かにトランスナショナルであるが、それらは特定のローカル/ナショナルな文脈を介した方法で知覚され、経験され、交渉される。」リーラ· フェルナンデスディアスポラの中国フェミニストの活動に20 年以上参与し観察してきた者として、この紙面を借りて、独自性のあるトランスナショナルな女性組織、中国女性学協会(Chinese Society forWomen's Studies / CSWS)の発展の歴史を振り返ってみたい。このように批判的に回顧することで、中国と世界のフェミニズムをさらに発展させるための道筋を模索できればと願っている。言い換えれば、この願いはローカルな特有性をそなえつつ、明らかにトランスナショナルな展望をもっている。私たちの分析のレンズのほとんどは中国製ではない。さらに、私たちが批判的な検証を行う対象は、国境によって規定されるものではない。このことはすでにグローバル時代の特徴を示しているといえよう。つまり、私たちはローカルとグローバルな文脈の両方に同時的に属している。グローバルな趨勢というものは多様な地点を横断し、まったく同じかたちで経験されることはないのだが、私たちディアスポラのようにトランスナショナルな媒介者たちは、明らかに類似した現象をグローバルに共有することができる。
著者
広瀬 玲子
出版者
The Gender History Association of Japan
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.17-32, 2014

1945 年の敗戦時日本帝国の支配は東アジア・東南アジア・太平洋地域に及んでいた。朝鮮半島もその一地域である。そこに約75 万人の日本人が移動・定着して家族を形成し、植民地での特権的生活を送った。35 年間の植民地支配の過程で、植民者一世・二世(あるいは三世)という世代形成がなされた。<br>本稿は、朝鮮で植民者として暮らした日本女性に焦点を当てた。被植民者に対し抑圧者・支配者であった女性に関する研究は少ない。まず、朝鮮における日本女性の人口・職業構成を明らかにし、彼女たちの植民地での位置を概観した。続いて、女性たちのあり様を、一世の経験としての愛国婦人会の結成と活動を通して考察する。朝鮮における愛国婦人会の結成は併合以前の1906 年であり、それも内地の愛国婦人会結成と歩みを揃えて行われた。これは日本の支配層が植民地化推進に女性の力を不可欠としたことを示している。愛国婦人会は「文明化の使命」の理念を掲げ、朝鮮王室や支配層の女性の多数を組織しながら活動を展開していった。<br>さらに女性たちのあり様を、二世の経験としての女学校生活という側面から明らかにした。具体的には京城第一公立高等女学校生の植民地経験をとりあげた。朝鮮で生まれ育った彼女たちは高等女学校生として「幸せな」学園生活を送るが、それは支配者としての特権の享受のうえに成り立っていた。彼女たちの大半は、自らが「植民者= 侵略者」であるという自覚なしに生活した。そこには支配を支配と感じさせない暴力、被植民者を不可視化する暴力が働いていていた。日本の敗戦により、「自分が侵略者であった」とつきつけられ、引揚げたのちに、内なる植民地主義をいかに解体するのかが課題となるが、いまだに果たされたとは言えない。<br>さいごに、少数ではあるがこの課題に応えようとする女性植民者の事例を紹介し、植民地主義解体の可能性について考察した。