著者
宇田川 将文
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.77, no.12, pp.788-795, 2022-12-05 (Released:2022-12-05)
参考文献数
35

物質を構成するマクロな個数の電子状態が膨大な重ね合わせを起こしたらどのような物性が生じるだろうか? この問に答を与えるのが量子スピン液体の研究である.20世紀の終わりに発見された磁性体であるスピンアイスは,それ自体魅力的な性質を備えた物質であるとともに,量子スピン液体の魅力をも垣間見せる.スピンアイスは,その磁気構造が氷(H2O)における水素原子配置と同等のルールで記述されるために,「アイス」の名で呼ばれる.氷は見かけ上,熱力学第三法則を破って絶対零度近傍でも有限のエントロピーを保持することは有名であるが,スピンアイスはほぼ同量の残留エントロピーを示し,その基底状態は系を構成するスピンの数に対して指数関数的に増大する莫大な個数の縮退をもつ.量子スピン液体の典型例――量子スピンアイス――はこのマクロに縮退したスピンアイスの量子力学的な重ね合わせ,すなわちシュレディンガーの猫ならぬ,「シュレディンガーの氷」である.逆にスピンアイスは,量子スピン液体が完成する前の前触れ,重ね合わせが生じる前の,高温のスピン液体と位置づけることができる(奇妙に聞こえるが「アイス」が「液体」よりも温度が高いのだ).量子スピン液体の示す著しい特徴として,分数化という現象が挙げられる.分数化とは電荷やスピンなど,系を構成する基本的な量子数がより小さい単位に分裂して独立した粒子として振る舞う現象を指す.分数化は量子力学の本質である重ね合わせの原理の裏返しとも言えるだろう.スピンはそれ自体ひとつの実体に見えるけれども,別の環境下では,もっと基本的な何者かの重ね合わせとしてより自然に振る舞う.分数化して生じる粒子の振る舞いは強結合のゲージ理論によって記述される.量子スピンアイスを記述するゲージ理論は驚くべきことに,我々の世界の基本法則に現れる量子電磁気学(QED)である.しかしながら我々の知るQEDとはやや異なる.光は遅い.スピンが分裂して生じる磁気モノポールは,我々のQEDには(今のところ)存在しない.大きい微細構造定数,同符号の電荷に引力が働く電磁気学など,量子スピンアイスは「あり得たかもしれないこの世界」の様々な可能性を物質中に実現して我々に提示する.量子スピンアイスを含む,量子スピン液体相が現実の物質で実際に実現しているかどうかは,長年の研究にもかかわらず,まだ定かとは言えない.量子スピン液体の探索には高温のスピンアイスがよい道標となるだろう.まだ存在が不確かな量子スピン液体とは異なり,スピンアイスは残留エントロピーをはじめとする確固とした実験結果により,Dy2Ti2O7やHo2Ti2O7などの物質で実現していることが知られている.量子スピン液体の兆候を捉えるために鍵となるのが,高温のスピンアイスから出発して,降温とともにいち早く量子性を獲得する磁気モノポールの探索である.強結合のゲージ理論に従う磁気モノポールの振る舞いを捉えることは容易ではないが,物理特性を鋭く見抜く理論手法の開発によりそのダイナミクスが精度よく記述され,量子スピン液体の探索という長年の問題が解決に向けて大きく前進することが期待される.

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日本物理学会誌は宝の山。こんなところにあった強結合QED。 https://t.co/VFMdHxtWAK 頂点にスピンをもつ正4面体を組み合わせていくと、多く縮退した基底状態があらわれ、ゲージ理論に見える。つまり量子電磁力学。そこには磁気モノポールも登場。しかも強結合。QEDの実験場じゃないか。

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