著者
林 永強
出版者
Nishida Philosophy Association
雑誌
西田哲学会年報 (ISSN:21881995)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.186-169, 2009 (Released:2020-03-23)

日本と中国の鎖国から開国への「巨時代」の激動的な流れの中で、西田幾多郎と牟宗三は、各自の伝統の視点から「歴史」について批判的で詳細に検討してい る。彼らは西洋哲学を受け入れながら、禅と儒教を含めた「東洋」の伝統的な思想を用い、それぞれの哲学的運動を導いている。疑いもなく、両者の「歴史」に おいての理解の中に政治的、経済的、文化的差異が含まれている。しかし、両者 は「歴史」についての考察と同じように、一つの方法論として、「理性」を強調 している。西田にとっては、「歴史」を考察する際、西洋と日本との間に、それ ぞれの「特殊性」が意図的に強調されるべきではなく、普遍的な「論理」あるい は厳密なる学問的方法が認識されるべきである、ということである。牟にとって は、歴史における「理性」は「事理」(shili, the logic of events)であり、その「事」 (shi, events)は「物理的事」(wulideshi, physical events)ではなく、「人事」(renshi, human affairs)であり、その「理」(li, logic)は人事の意味を示すも のである、ということである。「理」というのは「辯證的理」(bianzhengde li, dialectic logic)や「辯證的直観」(bianzhengde zhiguan, dialectic intuition)と して理解されなければならない、と牟は考えている。本稿では、両者が「理性」 と「歴史」とをどのように関係づけるのか、また、「理性」が西田と牟のそれぞ れの「歴史哲学」をどのように引き出すのか、ということについて検討したい。 圧倒的多数の西洋と日本、あるいは西洋と中国についての比較研究に加えて、東アジアにおける日本と中国の哲学的対話に潜まれた可能性と問題性について考察 する時期がきたことを示したい。

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