著者
北村 三子
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.268-277,366, 1999-09-30 (Released:2007-12-27)

教養主義とは、明治の末(ほぼ1910年代)に日本の知識人たちの間に成立した、人間性の発達に関する信条(あるいは「主義」)である。ドイツの教養(ビルドゥンク)概念の影響の下に、若いエリートたちは、人類の文化、ことに、西洋の哲学、芸術、科学などを継承することを通して人格者になりたいと思った。彼らはそれらの偉大な作品に触れることによって強められた理性と意志が人間の行動を制御すると期待した。彼らはある程度それに成功したが、同時に、大地や他者から切り離されてしまったと感じ、不安に悩まされるようになった。 教養主義は主に旧制高校生や大学生の間に普及したが、かれら若きエリートたちは、深層意識では、自分を高等教育には手が届かない若者たちと区別したかったのだ。その意味で、教養主義はかなりスノビッシュなものである。 この教養主義の欠点は、第二次大戦後、日本の教育関係者たちによって批判された。批判者の一人で、新時代のリーダーの一人であった勝田守一は、新しい教養の概念を提案した。それは、高く評価された人類の労働を基盤にしたものであった。勝田によれば、労働は人間の諸感覚、思考能力、コミュニケーション能力を発達させてきた。その中でも、近代に著しく発達した科学的思考法は、私たちにとって最も大切なものなのである。そこで勝田は、教養のある人間は、人類が発達させてきた諸能力を偏ることなしに身に付けていなければならならず、そうすることによって、教養人は社会を進歩させるであろうと主張した。人類の能力は無限に発達すると勝田は信じた。なぜなら、近代科学技術の発展には限界がないように見えたからである。 私たちはもはやこのような楽観的な見解には同意できない。なぜなら、近代の科学技術が自然に対して攻撃的であり、地球の生態系に重大なダメージを与えうることを、私たちは知ってしまったからだ。勝田の教養概念や教養主義をこの観点からもう一度振り返るならば、それらには、思考方法において共通の欠陥があることに気が付く。それは、近代思想一般に見られる欠点と同じものである。 近代的知性は生産的である。それは物を作り出すだけではなく、表象や概念や推論を用いて事物のリアリティを生み出すのだ。その思考法は、利用という観点からだけ事物と関わるものであり、人間中心的で、事物に耳を傾け対話することはない。鮮明に意識に表象されない事物は、意味がないとみなされ、無視される。あの若き教養主義者たちの心の葛藤も、おそらく、この近代の知性の産物である。 教養が再構築されねばならないとしたら、それは、これまでとは異なる思考やコミュニケーションの方法を基盤とするものでなければならないだろう。また、近代的な労働や社会の中でおそらくは失われてきた諸感覚や能力を回復できるものでなければならない。

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