著者
バレット トーマス
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.131, no.2, pp.1-38, 2022 (Released:2023-02-20)

本稿は、一八七七年から一八八〇年にかけて、清朝駐日公使館に勤務した米国人館員のマッカーティ(Divie B. McCartee)に焦点を当て、琉球問題をめぐる彼の私的活動を考察したものである。 マッカーティは、公使館の中で主に事務と翻訳作業を担当していた。しかしながら、明治政府が一八七九年に「琉球処分」を断行すると、彼は清と琉球との旧来の「宗属関係」を復活させるべく、個人的な活動の中でいくつかの対抗策を模索し、用意することとなった。 本稿が明らかにしたのは、以下の二点である。第一に、マッカーティは琉球を二つ、また三つに分割する案の考案・具体化に深く関わり、両案をこの問題の調停に当たった元米国大統領グラント(Ulysses S. Grant)に提示したという点である。日本側は、二分割案はグラントの支持を得たものであると考え、一八八〇年の日清交渉において、実際の解決策として清朝側に提案した。第二に、マッカーティは、明治政府の「琉球処分」を正当化しようとする作意を徹底的に批判した論説を英字紙『ジャパン・ガゼット』(Japan Gazette)に匿名で発表したという点である。この論説は、明治政府の歴史認識の不備を指弾して話題を呼んだばかりでなく、一八八〇年に日本側が二分割案を妥協策として清朝側に提示することとなった要因の一つと考えられる。 清朝駐日公使館の下級館員だったマッカーティは、従来ほとんど注目されることはなかったが、私的活動を通じて清琉間の旧来の「宗属関係」の復活のために尽力し、琉球問題をめぐる外交に「透明」な足跡を残した。本稿の考察によって、「外交」のプロセスを、代表者というアクター、公文書という媒体、そして交渉現場という「公」的場に押し込めるのではなく、より広い意味で捉える視野の有効性がはっきりと示されるだろう。

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