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la_cometa_rossa
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戦国期における伊勢信仰の浸透とその背景 越後国蒲原郡出雲田荘を事例として
舩杉力修「戦国期における伊勢信仰の浸透とその背景 ー越後国蒲原郡出雲田荘を事例としてー」(『地理学評論』70巻8号)https://t.co/S3W8HgLsUq 天文14年に堺の伊勢屋卯衛門に道者の権利を売却した蔵田左京亮国恒は、越後国守護上杉家の伊勢御師を代々務めた蔵田氏の左京亮系に連なる人物だろうか。
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松平庶家とその家中
平野明夫氏の『松平庶家とその家中』https://t.co/rAEEkMRLpfによると、この左近允・督左衛門尉は、大給松平真乗にあたり、真乗の父である親乗、同じく子である家乗が和泉守を称しているので、書写の際に、和泉守の印象が強くて誤記されたか、何らかの理由で意図的に書き替えられたのだろうか。
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蹴鞠伝授書から見た室町・戦国期における飛鳥井家とその周辺
RT @uesugi_dewa: 飛鳥井雅康(宋世・二楽軒)は越後上杉房定のもとにも下向してて、八条上杉龍松丸に蹴鞠伝授をおこなっていますね⚽️ https://t.co/iTsZlG9r0E
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千利休の切腹の状況および原因に関する一考察 : 関係史料の分析・検討および切腹原因に関する諸説の批判的検討
RT @koyorin_mr: 典拠は、承応2年(1653)成立の、千家第四世江岑宗左(表千家祖)口上筆録による「千利休由緒書」でした。 岩井さんは上杉勢の侍大将3人、足軽大将3人による6人の頭の一人として派遣されたようです。 参考は福井幸男「千利休の切腹の状況および原因に関…
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康富記
RT @uesugi_dewa: 『康富記』享徳4年正月6日条 或語云、昨日関東飛脚到来、鎌倉殿[持氏御子][成氏]去年十二月廿七日、管領上杉右京亮[房州入道子]被召出於鎌倉殿御所被誅伐云々、是併故鎌倉殿御生涯事、父房州申沙汰之御憤歟、依之御所方与上杉手有合戦云々 http…
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中世東国における領主権力と地域社会
RT @miurano_suke: 泉田邦彦氏の博論、要約(https://t.co/i5UJ5LInYz)から窺える考え方だけでもものすごく興味深いし、いろんな考察のヒントになる。 本当に早く読みたい。国会図書館にはいつ頃納入されるもんなのかしら。
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[師守記] 64巻
RT @uesugi_dewa: ↑ 「師守記」康永3年8月2日条 https://t.co/CwTFXyULrv 国会図書館に「師守記」の自筆本があるんですねー
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
RT @uesugi_dewa: "院殿上人にまでなった忠綱は、蔵人時代には「頗被召仕之者」であったといい、その父資綱が高倉天皇の蔵人にすぎなかったことを考えれば、父祖の地位はそれほど重要ではなく、累代の蔵人の家系の出であったという点に上北面選抜の契機があったといえよう" h…
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職原抄
RT @uesugi_dewa: 北畠親房『職原抄』によると、近衛将監は諸大夫層から六位の者が任官し、五位に昇っても叙留(位階が上がって官位不相当になっても辞任せずにもとの官に留任)するのが通例か。左近大夫とか右近大夫というのがそれですよね。 https://t.co/4LZ…
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雪村周継と臨済宗幻住派
RT @miurano_suke: PDF公開。『美術研究』428号(2019.9.10)所収、水谷裕史「雪村周継と臨済宗幻住派 」 https://t.co/igRQNiTUGq
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
RT @uesugi_dewa: →『明月記』での登場回数も非常に多い人です。そして清房と同様に後鳥羽院の隠岐配流にお供をした数少ない近臣のひとりでもあり、隠岐と京を往復し後鳥羽院の赦免の噂を探ったりもしていました。 https://t.co/QXTqCgPsMA https:…
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国史大系
RT @uesugi_dewa: 事件当時の清房の年齢は不明ですが、このような無分別さから考えると、あるいは清房も師季とそれほど年齢差のない血気盛んな若者だったのではないかと思えてきます。 師季が文治4年(1188)生ですから、清房もその前後の生まれなのかもしれません。 ↓…
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明月記
RT @uesugi_dewa: ふたたび藤原清房(上杉重房の父)について。 『明月記』建永元年(1206)7月3日条に「左近清房」が見えます。 『明月記』の記主藤原定家は主君の九条兼実の命を受け、後鳥羽院へ扇を献上する使者に(嫌々ながら)立っているのですが、 https…
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研究余録 織田信長「麟」字型花押の含意
RT @moji_mojinosuke: 調べようと思った。 CiNii 論文 - 研究余録 織田信長「麟」字型花押の含意 https://t.co/nXBrkhA5na #CiNii
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佐河田昌俊の前半生について
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佐河田昌俊の前半生について
渡辺憲司氏による『佐河田昌俊の前半生について』https://t.co/6MSFAul79b 木戸元斎は、天正14年2月2日の春日山城での和漢連句百韻において「学びのみちによはいかたふく(学びの道に齢傾ぶく)」などと詠んでおり、相当の年齢に達していたであろうとのこと。
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小笠原長時の外交活動と同名氏族間交流
RT @holy_sengoku: @holy_sengoku 将軍義輝は帰京以来、少なくとも永禄5年の教興寺の戦いまでは三好政権と協調関係にあり、三好家と上杉家の関係も決して悪くはありませんでした。永禄4年の小笠原長時・貞虎父子の旧領復帰を巡って両者は提携しています。http…
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松永久秀と京都政局 (史学科開設四十周年記念号)
RT @holy_sengoku: また、松永弾正邸の賑やかな左義長の様子に何らかの意図が込められているとすれば、単純に三好・松永を対抗勢力と捉える将軍義輝が上杉謙信に彼らの排除を要請したと見るのも早計ではないかと。幕臣として久秀を義輝に近い志向とする評価もありますし。http…
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