著者
西谷 敬
出版者
奈良女子大学
雑誌
人間形成と文化 : 奈良女子大学文学部教育文化情報学講座年報 (ISSN:13429817)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.1-30, 1997

日本の急速な近代化には,さまざまの限界がみられた。制度,機械,道具,衣装など外観は文明化されたけれども,西洋文明の精神を導入することには成功しなかった。単なる外観でなしに,西洋の精神を国民に伝えて,国民を近代的国民国家の担い手にしょうとする啓蒙主義の思想家が明治初期に登場した。一般に「洋学者」といわれた彼らは,「明六社」という団体を作って活動した。その中で代表的人物は,福沢諭吉と森有礼である。この明六社は長続きしなかったし,彼らはその後,経歴においても思想においても異なった道をたどることになる。明六社の時代後十年ほどして,若い世代の代表者として徳富蘇峰が「平民主義」といわれる啓蒙主義の運動を行ったが,それも長く続かなかった。これら啓蒙思想家は,皆ナショナリストであり,日本が近代的国民国家として発展していくために,西洋文明の精神を国民に伝え,それによって国民の従来のような無気力,卑屈,無責任を改めて,国民の気力,自主的活動,エネルギーをかき立てようとした。彼らは,士族ないし中産階級に訴えて,啓蒙活動を行おうとした。しかし国家の独立という当初のナショナリズムの課題より,天皇中心の国権の伸張,国家の膨張が重視されるナショナリズムが盛んになるにつれて,啓蒙主義も力を失った。このことは,啓蒙主義の思想家の変質とともに,啓蒙主義を部分的にしか受け入れなかった日本の国民,士族のエートスの限界として理解されうる。つまり啓蒙主義を通じて,ナショナリズムにつながる勤勉,堅忍不抜,義務などが教えられ,国民に受け容れられたけれども,近代人の特質をなす自主独立,寛容,個性などは定着しなかった。このことは,ナショナリズムに方向づけられた啓蒙主義の当初の目的を達成できなかったことを意味するので,啓蒙主義の挫折ということができる。これら啓蒙主義の問題を上記の三人の思想家について論じることとする。福沢諭吉は,終始啓蒙主義の思想家として活動した。彼は,ジャーナリストとして,また慶応義塾を通じて社会に大きな影響を与えた。彼の思想の理論的基礎をなし,主著と称せられる『文明論の概略』(1875)を中心に彼の思想を論じる。彼は,「権力の偏重」が西洋文明と異なる日本文明の特色であるとして,それを改善しようとして,西洋文明に学んで国民個人の独立を達成しようとした。文明を人々の「知徳の進歩」と規定した彼は,知識と道徳の両方が文明に備わっていることを主張したが,なかでも進歩の基礎として知識を重視した。彼は知識として,一方では物理学とその方法を取り入れようとしながら,他方では物事の軽重,時と場所の適切さを判断する智恵をあげている。両者の関係について彼は暖昧さを残しているが,両者があいまって個人の精神的独立が可能となる。彼が終始強調した独立の精神は,しかし国民に受け容られないままであった。彼が後にナショナリズムを強調し,政治的に保守化したことは別として,彼の主知主義,個人主義は国民のエートスとして作用することはなかったという点において,彼の啓蒙主義は挫折した。私人として活動した福沢に対して,森は官僚,外交官として活躍した。彼は初期に自由主義者,個人主義者として啓蒙主義の活動を行ったが,後に文部官僚として教育制度を整備したときには,国家主義者,専制主義者であるとみられる。彼の思想的立場をどのように見るかについて,研究者の意見は分かれているが,筆者は彼が終始国家中心主義者であり,合理的社会観,国家観を取った点では一貫していると考える。彼は,啓蒙主義者として,国家の機能の限界を認め,相互扶助による社会生活と道徳を説いたけれども,他方では兵式体操をもってする教育を通じて国民に強制的に規律と忠君愛国の精神を注入しようとした。これによって従順で威儀を正した国民は生まれるかもしれないが,彼が社会の基礎として重視した友愛,相互扶助は育たない。このように彼の主張の中に目的と手段の朗齬がみられ,また彼は強制的な規律を主張したことによって,彼は啓蒙主義から背馳しただけでなく,思想家として問題がある。徳富蘇峰はその出世作『新日本の青年』(1887)において当時の教育主義を,復古主義,偏知主義,折衷主義として批判した。儒教の復活を願う復古主義は論外として,福沢に代表される偏知主義を彼は実用主義,同調主義であると非難した。折衷主義は,「西洋芸術(技術)東洋道徳」を説くもので,知徳兼備を主張する点では尤もであるが,西洋の学問を取り入れたなら,道徳も西洋の道徳を取り入れなければならないと彼は論じた。彼は詳論しなかったが,自主独立,寛容,勤勉などの西洋市民社会の道徳を彼は導入しようとした。しかし彼が訴えかけようとした青年と平民,中産階級は,彼の主張に背を向け,国家依存と立身出世主義に走った。その中で彼自身,日清戦争を契機として思

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