- 著者
-
藤川 賢
- 出版者
- 日本社会学会
- 雑誌
- 社会学評論 (ISSN:00215414)
- 巻号頁・発行日
- vol.47, no.3, pp.320-334, 1996-12-30
共同体主義にたいしては, 近代を擁護する立場などからいくつかの批判がなされてきているが, 共同体の意義を説こうとする姿勢を単純に批判することは難しい。個人主義の存在論的解釈への否定は近代についての見方を深めるためにも有用であると考えられ, 実際に個人の解放という議論の中でも共同体への視点は重要性を増している。本稿は, この点での共同体主義の意義を認めたうえで, なお共同体が主義として主張されることの問題を追及しようとするものである。特に, 共同体的なつながりへの重視を個人の社会への従属から峻別する保証をどこに求めるかという点を中心にしながら, G.H.ミードの社会的自我論と対比的に検討を行った。そこで論じたのは, 第一に, それらがミードと同様に社会の中から個人を捉えようとする立場を取りながら, そのことと共同体に共通する道徳の取得との区別が曖昧になっており, 結果として, 個人が社会的変化に与える影響を見る視点を狭めていることである。第二には, このように共通の道徳を強調するために, 社会改革の方向がその範囲内に限られ, 伝統主義的にならざるを得ないことである。それらにたいして本稿では, 他者の態度を取得するという社会的自我の成立を社会的な能力として見るミードの考え方からは, 諸個人が社会の範囲を拡大し, 社会改革への役割を持つことを強調する, 共同体と個人を相互的に捉える視点が可能なことを示した。