著者
鴻野 わか菜
出版者
Japanese Society for Slavic and East European Studies
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.1-16, 157-158, 2002

アンドレイ・ベールイの『銀の鳩』には、物語の鍵となるいくつかの船のイメージがあり、作者は船を描くにあたって、様々な文化的コンテクスト、1)ロシア民話、2)聖書、3)ロシア異教、4)西洋文化のシンボル体系、5)ワーグナーのオペラ『さまよえるオランダ人』、6)ピョートル大帝、7)ギリシャ神話のアルゴー船、を用いている。第一に、物語に登場する新興宗教〈鳩の宗〉の教義の中心に、「信徒が集う〈船〉を建造する」というモチーフがある。新興宗教のリーダー、クデヤーロフは、共同体としての船を語る際、船を削る鑿の音を表す擬音語として「Tyap-Lyap」という言葉を用いているが、これはロシア民話で魔法の船を建造する時に使われる表現である。新興宗教のリーダーがこの言葉を使って船の建造を語った時点では、彼の持つ魔術的力について読者はまだ知らされていないが、実はロシア民話の魔法の船のモチーフによって、クデヤーロフの魔術者的性格はすでに暗示されているのである。作者自身語っているように、〈鳩の宗〉は架空の宗教であるが、鞭身派をイメージの源泉としている。鞭身派の信者は、信徒の共同体を〈船〉と呼ぶことが広く知られている。ベールイは、文化学者プルガーヴィン、ボンチ=ブルーエヴィチの著作を通じて鞭身派の教義について知識を得ており、〈鳩の宗〉のイメージ形成にあたって明らかに実際の新興宗教をモデルにしていた。物語にはもうひとつ重要な船のイメージがある。主人公ダリヤリスキーは、婚約者カーチャの邸宅を追放されたことを契機として〈鳩の宗〉に身を投じることになるが、彼は邸宅を追われる際、ふりかえって「船のように飛び去る邸宅」を眺める。ここには、船を愛の住処、幸せの象徴として位置づける西洋のシンボル体系が影響している。また、注意したいのは、ダリヤリスキーにとっては、純情な乙女カーチャの愛も、セクトの魅惑的な教義も、同じ船のメタファーで捉えられていることである。ダリヤリスキーは、救済、幸福を求めて〈船〉を渡り歩く旅人であり、永遠の航海者という点では、ロシア象徴主義詩人の愛好したワーグナーの『さまよえるオランダ人』と重なりあう。ベールイは20世紀初頭、ギリシャ神話のアルゴー船物語に惹かれ、「アルゴナウタイ同盟」というグループを作り「日常の神話化」をめざした。特に1904年前後にこの理想に強く惹かれたベールイは、ギリシャ神話をモチーフにした詩を数多く残しているが(詩集『瑠璃のなかの黄金』)、『銀の鳩』を執筆した1909年の時点では、若き日の理想に苦い幻滅を感じていた。『銀の鳩』で船がセクトの共同体、不幸な「さまよえるオランダ人」の船として登場するのも、アルゴー船へのアイロニーとして捉えることができる。旧来の理想に飽き足らず、新しい救済を求める旅に出ようとするのは、ダリヤリスキーだけでなく作家自身の姿でもある。

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@vendangeuse 読んでないので、抄録を読みました。とても興味深いですね。ギリシャ神話はよく読みました。ロシア民話はあまりしりません。 https://t.co/8IIcaavLdH

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