- 著者
-
山内 友三郎
- 出版者
- 大阪教育大学
- 雑誌
- 大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
- 巻号頁・発行日
- vol.20, pp.55-70, 1971
「このコスモス(宇宙、秩序)は、すべてにとって同じであるが、神々にしろ人間にしろ、誰が作ったものでもなく、常にあったし、あるし、あるであろう。メトロン(度、矩)に従って燃え、メトロンに従って消える永遠の火として」(DK. 22B30)、「太陽はそのメトロンをこえないであろう。もしこえれば、ディケー(正義の神)の助力者たるエリニュエス(復讐の神々)が見つけ出すであろう」(DK. 22B94)、という言葉がヘラクレイトスのものとして伝えられている。また、アポロニアのディオゲネスによれば、冬夏、夜昼、天候など「すべてのものに或る一定のメトロンがある」と云われている(DK. 64B3)。一般に自然界においては一定の法則があって、自然は一定の限度をこえることがない。動物の行動もまた一定の限度をこえることはないと云われる。ところが人間だけは、その自由によって、自然の限界をふみこえ、たえず限度を見なう可能性をもっている。限度や節度をこえることを、古代ギリシア人は、ヒュブリス(暴慢,不遜)としてしりぞけた。有名な「君自身を知れ」(DK. 10A3, cf. Philebos 48c)にしても、ソロンに帰せられる「すごすな」(DK. 10A3, cf. Philebos 45e)にしても、あるいは七賢人の一人クレオブーロスのものとされる「メトロンが最善」(DK. 10A3)という言葉も、さらにタレスに帰せられる「メトロンをたもて」(DK. 10A3)も、このヒュブリスをいましめたものと考えることができる。人間に火を与えたプロメテウスはゼウスによって罰せられなければならなかったが、悲劇の主人公達も、人間としての限度をこえることによって、没落していったのである。ところが,現代は、限度や節度を失っているところに、その特徴がある、とされることがある(cf. Bollnow, s. 36ff.以下引用書名は、とくにことわらないかぎり、末尾の文献表にまとめて示して、頁数だけを記すことにする)。たとえば『悲劇の誕生』(Bd. I, s. 33ff.)において、デュオニュソス的なものに対して、アポロン的なもののひとつの徴表を節度のうちに見たニイチエは、他の箇所で、つぎのように云っている。「節度(Maß)がわれわれに縁遠いものとなったことをわれわれは自認する。われわれの欲望は無限・無節度なものの欲望である。奔馬をかる騎手さながらに,無限なものを前にして手綱をはなすのである。われわれ現代人、われわれ半野蛮人は。」(『善悪の彼岸』第七章224, Bd. II, s. 688)。ギリシア的なメトロンの考え方が最もよく現われている作品のひとつとして、プラトンの『ピレボス』をあげることができる。本稿は、メトロンの概念をひとつの導きの糸としながら、この対話篇の一解釈をこころみたものである。たとえばヴィンデルバントは、この対話篇について、およそ次のような意味のことを述べているが、きわめて核心をつく言葉とおもわれる。すなわち、「これはプラトンの哲学的倫理-ギリシア精神のもっとも純粋・貴重な産物のひつ-である。美と真理の理想をもって、くまなく感覚生活に光をとおすことは、ギリシア人の創作と造形芸術すべてにおいて私たちに語りかけていることであるが、このことがここで光を放っているのである。これは節度(Maß)につながれ、ハルモニアにみちている。そのために、プラトンはここで、円熟のさなかにあって、また形而上的思考の頂点にたって、二世界論によって基礎づけようとした神学的倫理の場合よりも澄明で輝やかしい色彩のうちに,人間存在を見たのである。」(s. 108)。しかしながら、節度といい、限度といっても、それだけでは相対的なものであって、中心、規準をどこにとるかによって規定されてくるはずである。では規準となるべき「尺度」はどこに求めるべきであろうか。まずこのことについて、『ピレボス』篇の背景をさぐりながら、考えてみたいとおもう。In der Interpretation des Philebos bemerkt man bisher nicht besonders die Bedeutsamkeit des Maßes (metron), etwa außer Natorp und Krämer. Daher übersieht man oft die Einheit des Dialogs. In dieser Abhandlung versuchen wir, die Einheit dieses sehr verwickelten Dialogs dadurch zu finden, daß wir den Begriff des Maßes als Leitfaden der Ariadne benutzen. Das Prinzip, das diese Welt des Werdens als gewordenes Sein aus Mischung von Bestimmtheit und Unbestimmtheit erzeugt, ist auch dasdas gemischte gute Leben erzeugende Prinzip. Dasselbe Prinzip der Bestimmtheit, d. h. des Maßes macht also diesen Kosmos schön und das Leben des Menschen gesetzmäßig und geordnet. Auch in der Erforschung von Lust und Erkenntnis teilt Platon, meiner Ansicht nach, diese in Klassen nach Kriterium des Maßes ein. Und das, was als maßhaft anerkannt wird, wird in das aus Lust und Erkenntnis gemischte gute Leben eingemischt als die Bestandteile desselben. Die fünf Stufenfolgen der sogenannten Guttafel (ktēma 66 a ff.) scheinen die innerhalb dieses gemischten Lebens zu sein. Also darf man dieselbe Stelle nicht so interpretieren, daß die ersten drei Stufen Maß, Schönheit und Wahrheit sind, die zusammen das Prinzip des Guten darstellen. Den ersten Rang hat das Maßhafte und Normhafte in dieser gemischten gewordenen Welt, den zweiten das Symmetrische und Schöne, den dritten die maßhafte Vernunft, den vierten die nicht so maßhaften praktischen Wissenschaften, den fünften die ungemischte wahrhafte, d. h. maßhafte Lust.