著者
堀 恵子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.48, no.2, pp.87-97, 2000-01

松谷みよ子の育児日記とそこに記された子供たちの感性豊かな言葉を母体として誕生した「モモちゃんとアカネちゃん」シリーズ。ママとモモちゃん,アカネちゃんの微笑ましい関係に読者の関心が集中しがちなこのシリーズにおいて,登場場面は少ないが,おおかみに変身するなど,一人,異彩を放っているのがパパである。本論文では,そのパパの存在に焦点を当て,パパと子供たちとの関係,そしてパパの描かれ方の変化と人間以外の存在への変身の背後にあるものは何かを考察したい。その際,事実関係を理解するために『松谷みよ子全エッセイ』全三巻と自伝的な『小説・捨てていく話』および神宮輝夫『現代児童文学作家対談』を参考にしたいと思う。This paper focusses on the unique character of Papa in "Momo-chan and Akane-chan" series by Matsutani Miyoko. Careful examinations of the author's essays, interview, and autobiographical novel, reveal that the metamorphoses of Papa in the series correspond with the changes of the author's feelings toward her former husband, and her consideration for the people concerned. The Papa Wolf, created by the author's second daughter's remark, enabled the author to depict her former husband without becoming sick or hurting anybody around her. As time went on, the Papa Wolf seemed to bear a more human-like character. But it was not until the author wrote a book of poetry which exposed all her indignation against her former husband that she could bring in a truly humane Papa who showed deep parental love to his daughters. The bond of affection between Papa and his daughters after the parents' divorce, is an important theme in the series, and Papa can be called a hidden hero. Having a divorce was not common in those days. Seeing a parent after the divorce was even more unusual. But they are becoming more and more common recently. There are more readers who could sympathize with the characters in the series from their own experience. The "Momo-chan and Akane-chan" series, in which Matsutani Miyoko dealt with those contemporary themes for thirty years, would be a perfect series of books for all the family members to read. The series would give them an opportunity to seriously think about their family ties.
著者
小寺 茂明
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.17-29, 2004-09-30

本稿は接触節 (ゼロ関係詞節) についての問題点あるいは特徴をさまざまな視点から検討したものである。まず, 接触節は古くからある英語であり, それを必ずしも関係代名詞の省略とは見ない, という考え方について述べている。その後に, 改めてそれらの問題点あるいは特徴について, 次のような点を明らかにしている。 (1) 名詞句の連続という構造上の特徴はあとに従属節が続く合図であり, 接触節と先行詞の間にはなんらのポーズもなければ, 目立ったピッチの変動もない。 (2) 接触節での主語には人称代名詞がきわめて多用されている。 (3) 接触節では伝達すべき情報は旧情報並であり, 情報量は極めて少ない。また, そのために接触節をなしている部分の語数については2-4語であり・きわめて少ない構成をしている。接触節は,つまるところ,直感的に理解できるようなレベルのものであり,詳しい関係代名詞などの合図などは不要なほどにやさしい構造, 換言すれば, 情報の少ない構造のものなのである。すなわち,接触節は情報量をいわばぎりぎりのところまで抑制したものであり,すべてがそのいわば「スリム化の方向」に向かっているものと考えてよいであろう。
著者
山内 友三郎
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.26, no.3, pp.133-144, 1978-03

本稿は『饗宴』におけるソクラテスのエロース論をとりあげて、倫理学的な解釈を試みたものである。そのさいとくにエロースの究極の段階における,美ソノモノを見て真の徳を生む、といわれている箇所(212a)を解明しようとした。またそのさいソクラテスがディオティマから聞いたとされているエロース論はソクラテスープラトンのものであることを前提とした。プラトンによれば感覚界において価値のある美しいものや秩序あるものは、すべて、永遠の存在であるイデアにあづかることによって、美しくもなり秩序あるものにもなるのであり、またそのことによって存在性をおびるのであって、美しくもなく秩序もないようなものは非有と考えられる。美しく秩序あるものであることは、その分だけ存在の刻印をおびることを意味している。神の創造作用によって、範型(パラデイグマ)に似せられて作られたためにこの宇宙(コスモス=秩序)は美しく秩序あるものになるのであって(『ティマイオス』28以下)感覚界はその意味では永遠の存在と無のあいだを揺れ動く映像のようなものである。したがって、この世界は秩序があることによって、イデア界と連続性をたもち、そのことによって全体が保たれているのである。「天も地も人間たちも神々も結合関連させているのは、交わりと友愛と秩序と慎慮と正義であって、このためにこの全体はコスモスと呼ばれる」(『ゴルギアス』508a)。さてエロースはまず何よりも美しいもの秩序あるものへの愛である。そして美と秩序とはイデア界・感覚界にわたってはりめぐらされているのであって、これに対応して、エロースはイデア界と感覚界とを仲介し結びつけているのである。天地はエロースがなければ瓦解する。エロースは偉大なるダイモーンであり、「神々と人間の中間にあって、両者のあいだを仲介し、間隙をみたしていることによって、全体は自己と結合している」(『饗宴』202e)。さらにまた美しいものは感覚界にあって特別の位置をしめていて、イデアを映す影のようなもののうちで、もっともよく見られるものである。『パイドロス』(250d)の神話によれば、人はこの世の美を見て、真の美を想起する、と言われているが、正義や慎慮やその他価値あるものについての、この世におけるいわばイデアの影像を見ても、とくべつの光を発するものではないが、美だけはこの世における影像が光り輝いていて明晰に視覚にうつるのである。このために美は感覚界のうちにあって、イデア界への通路の役割をはたすことになる。『饗宴』におけるエロース論は『国家』における善のイデアをめざす教育課程と本質的に同一の目的をもち、それを,美を媒介にして端的に示したものと考えられる。美しいものは美によって美しい(『パイドン』100d)のであって、美しいものはもっともイデア(形相)に似ていると考えられる。エロースは単なる欲求ではなく美への欲求であることによって、直接にしろ間接にしろ、イデア界への憧憬ともなりうるのである。したがって、エロースは、美を媒介にして、イデア界へと上昇しようとすることによって、真の知をえようとする愛知者でもあるのである。というのは、プラトンによれば、イデアのみが真の意味での有であって、これを対象として知識が成立するのである。感覚界にあるものは、有と非有の中間であって、それを対象としては知識はありえず、ただ思惑(ドクサ)があるだけである(『国家』478d)。エロースは知と無知の中間にあって、美を手がかりにして、真の知を求めているのである。知が見える形をとるとすれば恐るべきエロースをひきおこしたであろう(『パイドロス』250d)といわれるが、美しいものは、イデア界への通路として、知が見える形をとったものの相似物のようなものと考えられる。In this essay I have tried to interpret ethically the last stage of the ascent passage of eros in Diotima-Socrates speech of 'Symposion'. In the ascent passage of eros, if guided aright, the lover will begin to love beautiful bodies and then beautiful souls and be forced to contemplate the beauty in human conduct, laws and knowledges and finally absolute beauty itself. This beauty itself is thought to be the source of order in the intelligible world as well as in the sensible world. The love of the source of order, when directed into the soul of the lover himself, becomes the reason which orders eros for beautiful things in the sensible world. Therefore to strengthen the eros of beauty means to strengthen the eros of order in the soul. This is a real meaning of bringing forth true virtue by means of seeing beauty itself.
著者
枡形 公也
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.38, no.1, pp.49-66, 1989-08

In looking back upon the history of Kierkegaard's reception in Japan,we can naturally see the development of Japanese understanding of Kierkegaard,but we can also see something more interesting in the reflection of the circumstances of Japanese thinking from the Meiji Era.We can divide the history of Kierkegaard research in Japan in the following way:1.tha dawn(1968-1906)2.first period-introduction of Kierkegaard to Japan(1906-1914)3.second period-Watsuji's Kierkegaar(1914-1920)4.third period-Assimilation and Kierkegaard Renaissance(1920-1945)5.forth period-existentialism becomes polular(1945-1970)6.declining interest(1970-present)Each period brought forth an image of Kierkegaard according to the contemporary intellectual trend.There were many reasons why Kierkegaard read.But now Kierkegaard in the present situation.At any rate in this situation there is a trend to understand Kierkegaard internally from the viewpoint of Danish thought of his own age.Furthermore insofar as Japan is increasingly influential in the world,many foreign Kierkegaard in no longer solely the province of Western scholars,so there is a new tendency within Japan to respond to this interest.This article was presented at Kierkegaard's 175th Aniversary Conferrence at the University of San Diego in February 1989.日本におけるキェルケゴール受容史を振り返ってみると,そこには単に日本の研究者によるキェルケゴール理解の姿が見られるだけでなく,より興味深いことには,日本の思想状況がくっきりと浮かび上がってくるということである。日本におけるキェルケゴール受容史の時期区分をしてみれば,次のようになる。1.キェルケゴール受容前史(黎明期)(1880~1906)。2.第一期 キェルケゴール紹介期(1906~1914)。3.第二期 1914~1920頃。4.第三期 1920頃~1945。第一次キェルケゴールブーム。5.第四期 1945~1970。実存主義の流行。6.現在まで。それぞれの時期にはその時代思潮に応じたキェルケゴール像が生まれた。それはまたそれぞれの時代においてキェルケゴールが読まれる理由があったからである。しかし今日の日本ではキェルケゴールは殆ど読まれていないといってよいであろう。そこにはまた隠されたキェルケゴール像というものが存在している。いずれにせよ,この様な状況にあって,日本においては初めてキェルケゴールをデンマークの思想状況の中において,内在的に理解しようとする気運が芽生えており,他方で,日本が世界的に注目を集める中で,海外から日本におけるキェルケゴール研究のあり方に関心(この関心は以前の様に,極東の仏教国である日本で,なぜキェルケゴール研究が盛んであるのかというような,異国情緒的な興味に基づくものとは異なっていると思われる)が寄せられ,それに答えようとする研究動向が見られるようになってきた。本論文は1989年の2月にサン・ディエゴ大学で開催されたキェルケゴール生誕175年記念会議で発表したものである。
著者
山内 友三郎
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.55-70, 1971

「このコスモス(宇宙、秩序)は、すべてにとって同じであるが、神々にしろ人間にしろ、誰が作ったものでもなく、常にあったし、あるし、あるであろう。メトロン(度、矩)に従って燃え、メトロンに従って消える永遠の火として」(DK. 22B30)、「太陽はそのメトロンをこえないであろう。もしこえれば、ディケー(正義の神)の助力者たるエリニュエス(復讐の神々)が見つけ出すであろう」(DK. 22B94)、という言葉がヘラクレイトスのものとして伝えられている。また、アポロニアのディオゲネスによれば、冬夏、夜昼、天候など「すべてのものに或る一定のメトロンがある」と云われている(DK. 64B3)。一般に自然界においては一定の法則があって、自然は一定の限度をこえることがない。動物の行動もまた一定の限度をこえることはないと云われる。ところが人間だけは、その自由によって、自然の限界をふみこえ、たえず限度を見なう可能性をもっている。限度や節度をこえることを、古代ギリシア人は、ヒュブリス(暴慢,不遜)としてしりぞけた。有名な「君自身を知れ」(DK. 10A3, cf. Philebos 48c)にしても、ソロンに帰せられる「すごすな」(DK. 10A3, cf. Philebos 45e)にしても、あるいは七賢人の一人クレオブーロスのものとされる「メトロンが最善」(DK. 10A3)という言葉も、さらにタレスに帰せられる「メトロンをたもて」(DK. 10A3)も、このヒュブリスをいましめたものと考えることができる。人間に火を与えたプロメテウスはゼウスによって罰せられなければならなかったが、悲劇の主人公達も、人間としての限度をこえることによって、没落していったのである。ところが,現代は、限度や節度を失っているところに、その特徴がある、とされることがある(cf. Bollnow, s. 36ff.以下引用書名は、とくにことわらないかぎり、末尾の文献表にまとめて示して、頁数だけを記すことにする)。たとえば『悲劇の誕生』(Bd. I, s. 33ff.)において、デュオニュソス的なものに対して、アポロン的なもののひとつの徴表を節度のうちに見たニイチエは、他の箇所で、つぎのように云っている。「節度(Maß)がわれわれに縁遠いものとなったことをわれわれは自認する。われわれの欲望は無限・無節度なものの欲望である。奔馬をかる騎手さながらに,無限なものを前にして手綱をはなすのである。われわれ現代人、われわれ半野蛮人は。」(『善悪の彼岸』第七章224, Bd. II, s. 688)。ギリシア的なメトロンの考え方が最もよく現われている作品のひとつとして、プラトンの『ピレボス』をあげることができる。本稿は、メトロンの概念をひとつの導きの糸としながら、この対話篇の一解釈をこころみたものである。たとえばヴィンデルバントは、この対話篇について、およそ次のような意味のことを述べているが、きわめて核心をつく言葉とおもわれる。すなわち、「これはプラトンの哲学的倫理-ギリシア精神のもっとも純粋・貴重な産物のひつ-である。美と真理の理想をもって、くまなく感覚生活に光をとおすことは、ギリシア人の創作と造形芸術すべてにおいて私たちに語りかけていることであるが、このことがここで光を放っているのである。これは節度(Maß)につながれ、ハルモニアにみちている。そのために、プラトンはここで、円熟のさなかにあって、また形而上的思考の頂点にたって、二世界論によって基礎づけようとした神学的倫理の場合よりも澄明で輝やかしい色彩のうちに,人間存在を見たのである。」(s. 108)。しかしながら、節度といい、限度といっても、それだけでは相対的なものであって、中心、規準をどこにとるかによって規定されてくるはずである。では規準となるべき「尺度」はどこに求めるべきであろうか。まずこのことについて、『ピレボス』篇の背景をさぐりながら、考えてみたいとおもう。In der Interpretation des Philebos bemerkt man bisher nicht besonders die Bedeutsamkeit des Maßes (metron), etwa außer Natorp und Krämer. Daher übersieht man oft die Einheit des Dialogs. In dieser Abhandlung versuchen wir, die Einheit dieses sehr verwickelten Dialogs dadurch zu finden, daß wir den Begriff des Maßes als Leitfaden der Ariadne benutzen. Das Prinzip, das diese Welt des Werdens als gewordenes Sein aus Mischung von Bestimmtheit und Unbestimmtheit erzeugt, ist auch dasdas gemischte gute Leben erzeugende Prinzip. Dasselbe Prinzip der Bestimmtheit, d. h. des Maßes macht also diesen Kosmos schön und das Leben des Menschen gesetzmäßig und geordnet. Auch in der Erforschung von Lust und Erkenntnis teilt Platon, meiner Ansicht nach, diese in Klassen nach Kriterium des Maßes ein. Und das, was als maßhaft anerkannt wird, wird in das aus Lust und Erkenntnis gemischte gute Leben eingemischt als die Bestandteile desselben. Die fünf Stufenfolgen der sogenannten Guttafel (ktēma 66 a ff.) scheinen die innerhalb dieses gemischten Lebens zu sein. Also darf man dieselbe Stelle nicht so interpretieren, daß die ersten drei Stufen Maß, Schönheit und Wahrheit sind, die zusammen das Prinzip des Guten darstellen. Den ersten Rang hat das Maßhafte und Normhafte in dieser gemischten gewordenen Welt, den zweiten das Symmetrische und Schöne, den dritten die maßhafte Vernunft, den vierten die nicht so maßhaften praktischen Wissenschaften, den fünften die ungemischte wahrhafte, d. h. maßhafte Lust.
著者
井上 直子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.41-54, 2002-09-10

プラトン以来, ミメーシスの問題は芸術の本質に関わるものとしてさまざまな議論を引き起こした。 19世紀まで, 対象を真似て描写することで成立すると見なされていた芸術は, オスカー・ワイルドの「芸術が本当に始まるのは, 模倣をやめたときである2)」という言葉に象徴されるように, 単なるコピーではなく, それ自体価値を持った領域として存続するようになる。 この変遷を, 19世紀から20世紀にかけてのフランスの絵画, 詩, さらに「純粋芸術」の概念の中に見ていく。Depuis Platon, l'essence de l'art en Occident consiste dans la mimésis. La notion de la mimésis doit être analysée à partir de deux points de vue : moral et esthétique. Du point de vue esthétique, l'art doit s'approcher de l'idéal. Les peintres classiques visent à représenter la beauté idéale ; les poétes classiques tentent de décrire ce qui est vraisemblable. Il existe une dissociation rigoureuse entre l'original et la copie, le représenté et le représentant. Cependant, cette tendance se modifie au 19e siècle. Comme l'affirme Oscar Wilde, <L'art ne commence vraiment que là où cesse l'imitation>. Le tableau devient l'expression de la vision saisie à travers le <tempérament> des peintres. L'original n'est plus supérieur à la copie, mais l'impression interne constitue l'essence du tableau. Dans la poésie, le langage n'apas de référent au monde réel. Le rapport entre le mot et la chose est détmit ; les choses apparaissent devant les poétes en tant qu'étre mystérieux libéré de la notion générale en acquérant l'étrangeté. Ces nouvelles tendances se résument dans la notion de l'art pur. L'art pur a comme origine <l'art pour l'art>, affirmation invoquéé vers 1840. L'art accepte une rupture entre la morale et lui-méme. Il ne posséde plus d'objectif précis tel que la morale ou la manifestation, mais il construit un champ fermé, anti-référentiel, autonome de la réalité.
著者
小野 恭靖
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.47-56, 2005-09-30

日本のことば遊びの一種に判じ物がある。判じ物は絵と文字を用いて、主として日本語の同音異義によって解読させる視覚的なことば遊びである。その判じ物の資料のうち、同類の名詞を解とする判じ物を一枚摺りの錦絵版画に集成したものがある。それはいわば判じ物の「物は尽くし」資料と言え、今日「物尽くし判じ物」と呼ばれている。「物尽くし判じ物」は岩崎均史氏によって精力的に紹介されている。しかし、近時岩崎氏未紹介の「物尽くし判じ物」二点、また岩崎氏に言及がありながら、写真等による紹介がなされていない「物尽くし判じ物」一点が管見に入り、その,後大阪教育大学小野研究室蔵となった。本稿は従来十分な位置付けがなされていない以上三点の「物尽くし判じ物」を、写真とともに紹介する論考である。
著者
小野 恭靖
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.48, no.2, pp.109-116, 2000-01

江戸時代末期に爆発的に流行し、巷間に流布した"判じ物"資料に「もの尽くし判じ物」がある。「もの尽くし判じ物」は動物、植物、食品、調度品、風俗などの部類によるもの尽くし絵であるが、それがいわゆる"判じ絵"で描かれている点に特徴がある。また、「もの尽くし判じ物」は大判の錦絵摺りで、一枚物を基本としたが、二枚から数枚で一組とされた例も見られる。本稿では、「もの尽くし判じ物」を代表する三種の表現手法を取りあげ、それらが一朝一夕に成されたものではなく、日本語のことば遊びの歴史と伝統に基づいたものであったことを指摘する。"Monozukushi Hanjimono", which took the world by storm in the Edo era, is one of picture puzzles. The picture puzzles in "Monozukushi Hanjimono" are classified by subjects such as animal, plant, food, supply and public moral. They are Nishikie, which are color prints. This report treats three kinds of expressions in these picture puzzles, and indicates that their expressions were not made easily but had been made in the long history and tradition of Japanese language.
著者
住谷 裕文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.55, no.1, pp.1-20, 2006-09

ルナールの生涯を眺めるときことにショーモの村会議員に選出されて以降のショーモ,シトリー村における政治活動を無視することはできない。それどころか彼の文学作品そのものにもこの村政にたずさわった体験は影響を及ぼしている。そしていくつか傑作は書かれるもののしだいに文学活動は低調になってゆく。これはルナールが村の政治に多くの時間をとられ,犠牲をしいられたということであろうか。それともルナールにとって政治が文学よりも重要性を帯びたということであろうか。いずれにしろこの問題を考えるとき第三共和政を揺るがしたドレフュス事件をはじめとする内外の政治・社会状況,そしてレオン・ブルム,ジャン・ジョレスなどの政治家との交流を検討することが欠かせない。
著者
山下 博司 古坂 紘一
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.38, no.2, pp.163-173, 1989-12

Murukan-Subrahmanya,God parexcellence of the Tamils,has been plausibly believed to be a son of Siva and Uma-Parvati and also to be the younger brother of elephant-headed Ganesa-Ganapati.There is another belief,on the other hand,that Murukan is the son of Korravai,the ancient Dravidian goddess of war and victory.How can such a twofold parentage of Lord Murukan be historically explained?When did such conventional relationship centered around this adolescent god come to be known?And,does his relationship with other deities represent any essential nature of God Murukan?In this paper,to find a clue to these questions,we will closely examine the so-called Cankam classics,the literary corpus written in ancient Tamil,so that we may catch a glimpse of extra-Sanskritic or,more particularly,Dravidian notions of the sacred which presumably gave profound influences on the formation and the development of the religious ideas and institutions of the Southern Hindu cultures.今日南インド・タミル地方(ナードウ)の民衆の間で絶大な人気と信仰を集める童子神ムルガン(スブラマニヤ)には,その出生に関して一定の神話的説明が施され,一般にも広く信じられている。この神の誕生にまつわる纏まった記述は,タミル語の古典として知られるサンガム文献の後期の諸作品中に初めて現れるが,そこに見出される説話のプロットは,北方インドの軍神スカンダ(クマーラ,カールッティケーヤ)の出生譚の言わば一つのヴァリエーションとも呼ぶべきものであって,ムルガンの誕生説話が,南インド・ドラヴィダ世界に固有の文化的・宗教的伝統に根差したものというより,寧ろサンスクリット系のエピックやプラーナの甚大な影響のもとに形成されたものであることを強く示唆している。同様のことは,ムルガン神の家族関係をめぐる神話的説明に関しても確認することができる。例えば,ムルガンとガネーシャ(ガナパティ)は兄弟をなし,共にシヴァ神の息子と信じられているが,シヴァの息子としてのガネーシャの初出は遅く,サンガム文献中では全く言及を受けない。ムルガンとシヴァ=パールヴァティー,或いはコットラヴァイ女神との親子関係についても,後期に成立した一部の作品を除いて,サンガム文献にはそれを支持する積極的な証拠が欠如している。これらの事実は,ムルガン神の出生と家族関係をめぐる神話や一般の信仰が,概して,タミル地方が北方インドからの絶え間ない文化的影響を吸収・同化する過程で,数世紀にわたって徐々に成立・定着を見たものであることを暗示している。
著者
堀 恵子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.44, no.1, pp.1-9, 1995-09

平塚らいてうの名は, 日本における女性解放の歴史の中で今も変わらぬ光を放っている。女性のみの手による文芸雑誌『青鞜』の発行や新婦人協会の設立, 「若い燕」と呼ばれた奥村博との共同生活, 与謝野晶子との「母性保護論争」と, らいてうの言動は常に世の人々から非難と賞賛で迎えられた。本稿では, そのらいてうと旅という, これまであまり注目されなかったテーマを取り上げ, 彼女にとって旅とは何であったか, 旅が彼女にどんな影響を与えたのかを考察し, 平塚らいてうという偉大な人物の全体像を把握する一助としたいと思う。なお本稿でいう旅には転地療養などの比較的長期間の滞在も含まれている。らいてうは1923年, 千駄ヶ谷の路地裏の借家で関東大震災に遭遇するが, 本稿は大震災以前の旅を主として扱っている。To get a better understanding of Hiratsuka Raicho, one of the first major feminists in Japan, this paper focusses on the relationship between Raicho and her travels. This virtually undiscussed theme leads to the following conclusions. For Raicho, to travel meant to go back to nature, from which she gets life energy which rules the whole universe. These travels also provided her an escape from stressful city life. They offered her an opportunity to gather her thoughts and to make important decisions. They enabled her to enjoy the pleasure of being a good mother and wife in the grandeur of nature. Furthermore, each journey prepared her for the next step in her life. Her invigorating address to the readers of Seito, "In the Beginning, Women Was the Sun" was created from the combination of her natural admiration of nature, spiritual maturity cultivated through ascetic practices of Zen, and her trip to the mountainous region in Shinshu. This trip also produced her pen name, Raicho. To Raicho, a city was a place where she needed to come back for its facilities-better schools and medical care. Even with all the problems of living in a city, Raicho could still contribute a great deal to raising women's position in Japan, because she knew she could go to back nature Whenever she felt the need, nature which she was certain would receive her with open arms.
著者
栗林 澄夫
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.50, no.2, pp.67-79, 2002-01

アレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander von Humbolt)は、1779年にベルリンで生まれ、亡くなったのは、1859年5月、生地と同じベルリンである。自然地理学の祖の一人として知られるアレクサンダーは、二歳年上で、政治家、言語学者、そしてベルリン・フンボルト大学の礎を築いた人物として当初からその名前が人口に膾炙していた兄ウィルヘルム(Wilhelm)とは異なって、生前ドイツで広く名を知られることが無かった。しかし、ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)との交遊を通じてゲーテの形態学的な自然認識の方法に影響を与えた人物として、また、十九世紀中葉にロマン主義の影響によって盛んになった探偵物語の主人公として、その存在は特異な形で人々の記憶に残った。翻って、われわれの時代にとって彼の名前は、自然地理学という学際領域の学問分野の創始者として、さらには、学際領域で優れた研究業績を上げようとする研究者を支援するフンボルト財団によって親しいいものとなっている。アレクサンダー・フォン・フンボルトの独自性、あるいは特異性は、学問の専門化と細分化が始まろうとしていた十九世紀初頭のドイツにおいて、時代を越えた異質な輝きを放っている、と言えるだろう。彼が目指した感覚と認識の統合は、自然環境と人間との間に大きな亀裂を体験している我々の時代にとって、両者の関係の修復へ向けての大きな手がかりを与えてくれる可能性を示唆していると考えられる。本稿においては、それ故、フンボルトを自然地理学の先達としてだけでなく、優れて学際的な志向の人として捉えなおし、そのことによって彼の今日的な意義を再確認しようとするものである。Alexander von Humblodt wurde zum Inbegriff des Pioniergeistes eines ganzen Jahrhunderts.Er war Naturwissenschaftler,Völkerkundler,Historiker,Archäologeund auch Abenteurer.Seine erste große Reise führte ihn von 1799-1804 durch den südamerikanischen Urwald,dann von Kuba über Lima bis nach Mexiko-quer durch die spanishcen Kolonien Süd- und Mittelamerikas.In einem 30bändigen Reisebericht dokumentiert er die Ergebnisse seiner unter abenteuerlichen Umständen betriebenen Forschungen,die zu den bedeutendsten wissenschaftlichen Leistungen seiner Zeit zählen.Stets fühlte er sich als Europäer bemüht,die Welt als Ganzes zu sehen.Obwohl er zu seiner Lebzeit in Deutschland nicht bekannt geworden war,war seine Wirkung auf Zeitgenossen und die Nachwelt so ungeheuer,daß über tausend wissenschaftliche oder auch profane Dinge nach ihm benannt wurden.Indieser Arbeit wird darauf gezielt,aus seinen komplexen Schriften den Begriff "Naturgemälde" als einen der Kerne seines Problemkreises berauszumehmen und anhand von dessen Analyse den Zusammenhang der Naturforschung mit der Kunst bei Alexander von Humboldt ans Licht zu bringen.Der Begriff "Naturgemälde" enthält bei Humblodt auf der einen Seite eine naturwissenschaftlich präzise Wiedergabe der Natur in sich,aber bedeutet auf der anderen Seite eine dichterische Darstellung der Welt der Natur.Diese beiden Hauptpunkete,die heute gegenseitig entgegengesetzt zu sein scheinen,waren im ausgehenden 18.Jahrhundert für die dichtenden Naturforscher wie J.W.v.Goethe u.a. in dem Sinne sehr interessante Fragen,daß sie durch ihre Vermittlung universale Erkenntnis über das Wesen der Natur zu haben glaubten.Bei Humboldt,besonders bemerkenswert ist,daß er seinerseits durch die Vermittlung der erwähnten Argumente eine neue puluralistische Perspektive bekam,die auf die Nachwelt der Dichtung sehr aufschlußreich wirkte.
著者
吾妻 修
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.33-45, 2005-09-30

第1報ではディドロの道徳批判を概観し、特に近親相姦について論じた。第II報では道徳思想をより深く掘り下げるため、二つの人間観、性善説と性悪説を採り上げ、両者がいかなる視点に立脚しているのかを考察し、それぞれが抱える重要な主題、特に生と死の問題について論じる。その具体例として、主にキリスト教とルソーの立場を検討する。
著者
住谷 裕文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.50, no.1, pp.27-41, 2001-08

ジュール・ルナールの『日記』にかんしては臨川書店から刊行されたルナール全集の最終巻である第十六巻解説において拙論を記したが,なお意に満たぬところも多く,あらためて若干の問題点について検討を加えたい。今回はまず,『日記』を含めルナール文学の特質について翻訳全集刊行後まとめた小論を紹介し,ルナールの『日記』の持つ意味について新しい角度から考察する手がかりとしたい。(1) また彼の『日記』は現在プレイアッド版によって広く読まれているが,じつはこの版が拠っているアンリ・バシュラン編集のベルヌアール版ルナール全集の『日記』テキストは多くの削除・修正を受けていることが分かっており,この点の経緯は上記臨川書店刊行の邦訳全集で詳述したが,ここではそのいわば改竄の実態を具体的な例をあげ点検(2)したい。したがって本論考は1「ジュール・ルナールの文学-三つの辺境とその征服」という小論,および2「アンリ・バシュランによるルナールの『日記』原稿改竄」のふたつからなる。Le Journal de Jules Renard est sans conteste le maitre chef-d'Stvre de l'ecrivain nivernais, pourtant c'est egalement un ouvrage truffe de problemes, au sujet desquels nous voudrions discuter dans cette serie d'articles. Or nous desirons en premier lieu, remettre en question l'authenticite du texte de l'edition actuelle, qui est, selon nous, a tout le moins fort discutable. En effet, quoiqu'on ait pu envisager que le manuscrit de Renard avait ete entierement reduit en cendres, Leon Guichard qui faisait incontestablement autorite parmi les checheurs s'interessant a notre auteur, a retrouve par un jeu du plus parfait hasard une page manuscrite dudit journal (page qui est de nos jours conservee a la Bibliotheque Nationale de Paris), et en a compare minutieusement son texte avec celui de l'edition d'Henri Bachelin. Et ceci eut pour resultat de montrer que le texte de Bachelin presentait de nombreux suppressions, coquilles et modifications tout a fait arbitraires en regard de la version manuscrite. En outre, un autre chercheur ayant decouvert a son tour une nouvelle page du manuscrit d'origine, les constatations apres comparaison du texte de Bachelin, en furent en tous points pareilles. Notre article traitera donc de cette derniere decouverte, pour le moins fondamentale quant a l'histoire de la litterature francaise et tentera de reprendre en la precisant, l'analyse de ce chercheur. Nous voudrions, de surcroit, tendre vers une nouvelle approche du caractere de Jules Renard, surtout a travers son journal, et ce sous la thematisation de: Jules Renard et la conquete de ses trois marginalites.
著者
森田 繁春
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.43, no.1, pp.1-13, 1994-09

E.E.カミングスの詩"anyone lived in a pretty how town"については,言語学者もさまざまな分析を試みている。本論文では,それらの研究の特徴を3つに分類しその概要を述べた後,ローマン・ヤコブソンらによって提唱された構造主義詩学の方法が文芸批評と言語学的分析を繁ぐ方法として有効であることを,実際に当該の詩を分析することによって示す。Various linguistic approaches have been proposed to e.e.cummings's"anyone lived in a pretty how town."They are roughly classified into three types,grammatical,lexical and structural,the barest outlines of which we shall first give and then insist that the method of structuralist poetics by Jakobsonian linguists can possibly be a connection between literary criticism and linguistic analyses of this poem.
著者
吾妻 修
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.89-102, 2005-02-21

ディドロの『ブーガンヴィル航海記補遺』は、タヒチ人の自然の生活を讃美するとともに、ヨーロッパ文明を諷刺・批判した著作である。まずディドロの文明批評がどのような問題を提起しているかを考察する。次に、文明に対置された自然が、彼においてどのような意味を与えられているかを検討してみる。念頭にあるのは、近代思想の孕む空虚さである。なおこの報では性の解放と近親相姦に焦点を当てる。
著者
田中 ひかる
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.52, no.1, pp.21-38, 2003-09

従来アナーキズムは, 政治思想および政治運動として論じられることが多かったが, それ以外の領域への影響に関する検討は, いまだ不十分である。たしかに近年では, 芸術家とアナーキストとの関係, とりわけ新印象派画家とアナーキストの関係について研究が蓄積されてきた。ただしそこでは, 画家がアナーキズムの政治的側面にではなく個人主義的主張に関心を抱いた, と論じられてきた。だが本稿で筆者は, 近年の研究に依拠しながら, アナーキズムと関わった画家の思想や作品には, 政治的なアナーキズム思想を確認できる場合もあること, および, 画家たちの主張において個人主義的アナーキズムはきわめて政治的性格を帯びていた, という点を指摘する。This paper is the critical survey of recent studies on the relationship between artists and anarchism. Previous studies argued as follows: 1) many well-known Neo-Impressionist artists contributed their works to the periodicals of anarchist movement. However such works were very few and not anarchistic; 2) for many artists anarchism represented `a general attitude to life' rather than a specific theory about society. Such individualistic anarchism was not political theory, but a sort of extreme individualism. My research, however, conclude otherwise. By closely analyzing the studies on Neo-Impressionist artists and modern artists, I demonstrate following points: 1) in some works which artists contributed to anarchist periodicals can be found evident anarchistic and political feature which many scholars overlooked. Such anarchistic feature could be found more easily in other political paintings, if scholars analyze the anarchist literature more thoroughly; 2) the individualistic ideas of modern artists in the United States were very political. They demanded the absolute freedom of their consciousness and expression, and rebelled against the conservative American academy. This led them to stand for the anarchistic utopia in which their artistic ideal should be realized. Meanwhile, anarchists found that such rebellious movement of modern artists could be one of revolutionary factors which help the outbreak of social revolution. To overcome the difficulty to find the anarchistic feature in abstract modern art, further study will be required on the anarchist ideology which had great influence on modern artists.
著者
堀 恵子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.46, no.1, pp.15-23, 1997-08

Mary Wollstonecraftが長女,Fannyを出産したのは,1794年,彼女が35才の時であった。しかし,彼女には1790年後半に9才の女の子を養女として引き取った経験もある。Wollstonecraftは一体どのような母親であったのだろうか。本稿では1787年に出版されたThoughts on the Education of Daughtersと1792年のVindication of the Rights of Womanに描かれた理想の母親像と,子育ての経験を述べた彼女の手紙との比較研究,および人生の転機となる大事件の考察によって,彼女の理論と実生活に迫りたい。The main purpose of this paper is to grasp the truth of Mary Wollstonecraft as a mother. Careful examinations of her life-changing occurrences, earlier theories in Thoughts on the Education of Daughters and Vindication of the Rights of Woman, and letters which were written during her child-rearing years, lead to the following conclusions. She was not prepared to become a mother, either economically or mentally, when she adopted Ann. She left Ann to Everina's care and moved to Paris, when she was convinced that Ann would not become the kind of child she could love with all her heart. This behavior is similar to that of her father's who fled to a new village every time his farming failed. After she had her own daughter, Fanny, it seemed that she developed maternal love and that she tried to bring up Fanny in accordance with her child-rearing theories. But the fact that she attempted suicide twice indicated that she was still trying to escape from reality when she found herself in a dilemma and that her love toward Fanny was sill in a selfish stage. It was not until she recovered from her second suicide attempt that she finally realized she had the duty of a mother to Fanny and became a truly responsible mother, who would give her selfless love to her daughter and protect her under any circumstances. Fanny's unhappy life would have been completely different if Wollstonecraft had not died in her second childbirth just when she had developed into a true mother.
著者
住谷 裕文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.35, no.2, pp.195-205, 1986-12

外国のある作家を真に理解するというのは決して容易なわざではない。その作家の作品の理解だけでは,およそ十全な把握をなしえたとは言いえないからである。その国の文化的特色や時代的状況,その他さまざまのことに深い知識が必要である。そうしてはじめてその作家の独自性が浮かび上がって来る。私が研究対象としているスタンダールについては,ことにその感が深い。いまここに取り上げようとしている作品の筆者は,スタンダールとわずか18年の期間をこの世で同じくしたに過ぎず,政治的にもスタンダールが共和主義者であったのにたいして,王統派,スタンダールが青年時代ナポレオンのイタリア遠征に参加して以来,熱烈なイタリアびいきになったのにたいし、終始変わらぬフランスびいき,とまったく正反対の人物である。しかもその文学観もほとんど対蹠的である。けれどもこの人物のフランス文学にたいする見解は,フランス語の特質をめぐる議論とともにフランス語およびフランス文学史のさまざまの問題を浮かび上がらせてくれると同時に,スタンダールのフランス文学史における姿を,幾分かは我々に明瞭にさせてくれるようにも思うのである。そしてその結論については後日,また別の論考で明らかにしたい。En 1782,l'Academie de Berlin a mis au concours le sujet suivant:Qu'estce qui fait la langue francaise la langue universelle de l'Europe?Par ou merite-t-elle cette prerogative?Peut-on Presumer qu'elle la conserve?Elle a couronne le<<DISCOURS SUR L'UNVERSALITE DE LA LANGUE FRANCAISE>>d'Antoine Rivarol en 1784.Ici,nous examinons son<<DISCOURS>>.