著者
盛山 和夫
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.57, no.1, pp.92-108, 2006

一昨年のアメリカ社会学会会長ビュラウォイの講演以来, 「公共社会学」に対して熱心な議論が交わされている.これは現在の社会学が直面している困難な状況を「公衆に向かって発信する」という戦略で克服しようとするものだが, この戦略は間違っている.なぜなら, 今日の社会学の問題は公衆への発信がないことではなくて, 発信すべき理論的知識を生産していないことにあるからである.ビュラウォイ流の「公共社会学」の概念には, なぜ理論創造が停滞しているのかの分析が欠けており, その理由, すなわち社会的世界は意味秩序からなっており, そこでは古典的で経験的な意味での「真理」は学問にとっての共通の価値として不十分だということが理解されていない.意味世界の探究は「解釈」であるが, これには従来から, その客観的妥当性の問題がつきまとってきた.本稿は, 「よりよい」解釈とは「よりよい」意味秩序の提示であり, それは対象世界との公共的な価値を持ったコミュニケーションであって, そうした営為こそが「公共社会学」の名にふさわしいと考える.この公共社会学は, 単に経験的にとどまらず規範的に志向しており, 新しい意味秩序の理論的な構築をめざす専門的な社会学である.

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ということもあって、盛山和夫「理論社会学としての公共社会学にむけて」『社会学評論』第57巻第1号、2006年、92-108頁、をざっと読み返す。そうかもう15年も前の論文になるのだとしみじみと。 https://t.co/LdvUxz0CXM

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