- 著者
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岡野 一郎
- 出版者
- 東京農工大学
- 雑誌
- 東京農工大学人間と社会 (ISSN:13410946)
- 巻号頁・発行日
- vol.15, pp.109-128, 2004-03-26
グレゴリー・ベイトソンのダブルバインド理論が話題になったのは,かれこれ20年ほど前になろうか。当時,ベイトソンの議論は二種類の方向で受容されていたように思われる。一つはニュー・サイエンス的な方向性であり,ベイトソンの議論を悟りや宗教的な体験と結びつけて捉えるものだった。そしてもう一つは,ポスト構造主義的な方向性であり,ここではダブルバインドの持つ破壊的な側面が重視されることになる。いずれにせよ,ダブルバインドそのものは人間同士のコミュニケーションに亀裂をもたらすものであり,およそ共生といったこととは正反対の意味合いで捉えられていた。宗教的な方向性で見る場合でも,ダブルバインドを乗り越えたところに新しいものが見つかる,という話になっていた。しかし,むしろダブルバインドそのものの中にこそ共生の可能性がはらまれているという見方はできないだろうか。ダブルバインド理論が持つ含みは,共生と葛藤の契機が,基本的に同じものに根ざしているという点にあったのではないか。本稿においては,このようなダブルバインドの「可能性」を,コミュニケーションの流れを見ていく中で探っていきたいと思う。ダブルバインド理論は精神分裂病(統合失調症)研究の中から生まれてきたものだ。しかし,その応用範囲はかなり広いと思われる。すべてのコミュニケ-ションにはダブルバインドがはらまれていると考えられるからである。本稿ではまず,ベイトソンの基本的なスタンスを復習しておく。そして,ダブルバインドの状況を概観した後,ベイトソンの議論が持つ限界点を考える。その上で最後に,コミュニケーションを捉える視点としての,ダブルバインドの可能性を見ていくことにしたい。