著者
黒岩 幸子
出版者
岩手県立大学
雑誌
総合政策 (ISSN:13446347)
巻号頁・発行日
vol.6, no.1, pp.27-62, 2004-09-30

1955-56年の日ソ交渉を契機として、日本政府は、サンフランシスコ平和条約で日本が放棄した千島列島に南千島(択捉・国後)は含まれないとの立場をとり始め、それ以降、択捉、国後、色丹、歯舞は「北方領土」と呼ばれるようになった。「北方領土」が四島を指す固有名詞として定着すると同時に、千島列島は切断され、カムチャッカと道東を結ぶステッピング・ストーン(踏み石)としての役割も、かつて列島全体に居住していた先住民の歴史も捨象されてしまった。千島列島には、先史時代から現在までに、先住民共同体・日本人社会・ロシア人社会という三つのトポス(場所)が生成している。本稿は、日本とロシアという近代国家の邂逅と国境画定のプロセスの中で崩壊していった千島の第一のトポス、主にアイヌ共同体の盛衰をたどることによって、北方領土問題の歴史的側面を明らかにするものである。

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