著者
高野 泰志
出版者
岩手県立大学
雑誌
言語と文化 (ISSN:13475967)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.41-52, 2003-01-31

ヘミングウェイの最初期の短編「インディアン・キャンプ」は、作家の半自伝的登場人物、ニッタ・アダムズを主人公とする物語である。まだ幼いニッタは父親のヘンリー・アダムズ医師とジョージおじさんに連れられ森でキャンプをしていたが、インディアンの女性の出産を手助けするため、深夜のインディアン・キャンプへと赴くことになる。その女性は子供を生むことができずに三日間も悲鳴を上げ続けていた。アダムズ医師は逆子であることを知ると、麻酔をかけることなくジャックナイフで帝王切開を行い、釣り用の針と糸で傷口を縫い合わせるという、非人間的な状況下での手術をなんとか成功させる。母子ともに命を救うことのできた医者は、非常に高揚した気分で、そばの寝台にいた夫にそのことを伝えようとするが、夫はすでに剃刀で喉を切り裂いて自殺していた。そのような場面を幼いニッタに見せたことを後悔しながら、父子は湖を渡ってもとのキャンプへと帰っていく。この作品は非常に多くの謎を抱えた作品であるが、頻繁に問題にされるのは、インディアンの夫がなぜ自殺をしたかという問題である。この謎を最初に取り上げたジェフリー・マイヤーズは、答えを未開民族の間に見られる「偽娩」という風習に求めている。しかし、このマイヤーズの説もインディアンの夫の唐突な死を十分に説明しきってはいない。この謎の死の持つ意味は、当時の出産をめぐる医学のイデオロギーと、帝国主義へと向かうアメリカの政治的イデオロギーが複雑に絡み合った歴史的背景を鑑みてはじめて立ち現れてくるのである。世紀転換期の医学は、それまでは産婆の領域であった出産を産科学という医学の一分野に組み込み、男性の身体にはない生殖に関する現象を、本来は自然な身体反応であるにもかかわらず、「病」=「異常」とみなしていた。このことを考慮に入れると、この作品で描かれる十分な設備のない未開の地での乱暴な帝王切開手術は、いわば自然の領域へと踏み込む近代医学のイデオロギーを表象していると考えられる。さらに、19世紀半ばに発明された「麻酔」は当時の文明の最先端技術であり、痛みに敏感な文明人のすべてが享受すべき恩恵であると考えられていた。その一方で、未開民族は痛みに対して鈍感であり、麻酔が必要であるとは考えられていなかった。作品中で描かれているように、アダムズ医師は麻酔なしの手術を行うに際して、インディアンの女性の痛みに一切注意を払っていないのである。このように、麻酔の発明は自らの痛みの感覚を顕在化させる一方で、他者の痛みの存在を不可視なものにしてしまうのである。そしてこのような考え方が当時のアメリカの帝国主義的領土拡張政策を推し進めることになるのである。それに対してヘミングウェイの描くインディアンたちは自然との共感能力が高く、他者の痛みに対して敏感である。この点を考慮に入れると、麻酔なしで腹を切り裂かれる妻を目の当たりにした夫がその痛みを自分のものとして受け止めていたとしたら、そもそもこの夫の死は「謎」であるといえるのだろうか。むしろこの問題を謎として取り上げたマイヤーズをはじめとするこれまでの批評家たち自身が、インディアンの痛みに対してあまりにも鈍感になっていたといえるのではないだろうか。本論文では、これまでもっぱらニッタの成長物語として読まれてきたこの作品を、「痛み」の表象を通して人種的観点から読み直す試みである。

言及状況

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私もこの夫の死についてはずっと不可解な部分を残したままでした。 しかし、こちらを読んで幾分すっとしました。 質問者さんにも読んでいただければ…と思い こちらに貼っておきますね。 http://ci.nii.ac.jp/naid/110004682911/ ご覧になれないようでしたらコピーしますので 補足にお書きください。

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ヘミングウェイのインディアン部落について。非常に納得しました。
ヘミングウェイのインディアン部落について。非常に納得しました。

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こんな論文どうですか? Her Screams Are Not Important : The Politics of Pain in Hemingway's "Indian Camp(高野 泰志ほか),2003 … https://t.co/tlC7KqJ4hC
両刃カミソリで髭剃りすると、大学の授業で読んだヘミングウェイの「インディアンキャンプ」を思い出す。カミソリで喉を切って自殺するやつ。https://t.co/WI3pH4scAP
CiNii Articles -  Her Screams Are Not Important : The Politics of Pain in Hemingway's "Indian Camp" http://t.co/4wCXZGJYqt 参考になった #CiNii
「アメリカ先住民居留地を舞台にした短編で、男が妻の出産の苦しみの声に・・・」って誰のなんだっけ、キンセラだっけか?とモヤモヤしてたらニック・アダムス物だった。http://t.co/PaAns47Y 10代の時読むヘミングウェイの影響恐るべし (・_・; @Ai_Tominaga
@wae_r これ授業でやったけど確か痛みに耐えてる女の声聞いて自分が耐えられなくて死んだんだろ http://t.co/A7K6Y8x3 ここに真面目な文章載ってるけど 意味なんて深く考えるほどのものじゃない とぼくは思いますね
本は通勤途中に読むので沢山は読めないのですが、最近ヘミングウェイの短編集「キリマンジャロの雪」を再読してます。今日は、「インディアン・キャンプ」を読んだんだけど、府に落ちない部分があったんだけどこの論文にちょっとグっときた。http://t.co/pJTxtXaX
こんな論文どうですか? Her Screams Are Not Important : The Politics of Pain in Hemingway's "Indian Camp(Takano Yasushi), http://id.CiNii.jp/ToOzL
こんな論文どうですか? Her Screams Are Not Important : The Politics of Pain in Hemingway's "Indian Camp"(TakanoYasushi), http://id.CiNii.jp/ToOzL

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