著者
飯島 敏文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 4 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.173-185, 2006-02

本稿は,就学前の子どもの日常生活に存する事物あるいは事象の一切を教育的契機として位置づけ,それら教育的資源の有効な活用をはかるための指針と具体的方略及び課題を提起することを目的とするものである。それら教育的資源がいかなる教育的価値を孕んでいるか,さらに教育的価値を発現する上で妨げとなる懸念のある諸要素をいかに把握し,逆にそれらを価値ある諸要素に転換するための手だては存在するという見地から,可能な限り具体的に「日常経験の教育的価値」とその機能の仕方を記述してみたいと考える。筆者はこれまで20世紀初頭おけるドイツのHeimatkunde,昭和初期の郷土教育論及び実践,さらに戦後の地域学習の役割の再評価を通して,子どもの経験という視点から郷土すなわち日常生活空間が内包する教育的価値の解明にアプローチしてきたつもりである。本稿では支障ない範囲で「郷土」を「日常生活空間」と読み替えることで,子どもの日常生活における教育機会を抽出し,その意義と課題を考察してみるつもりである。さて,子どもの日常生活における教育的契機が多数見いだされ,その教育的機能の有効性が期待されるとしても,そしてさらにその有効性が疑いないものであるとしても,教育機会を提供し制御する主体が誰であるのか,またその人的・物質的支援は何人が責務を負うべきであるのかということは,教育の営みの中で常に問い直され続けなければならない課題であると思われる。筆者は学校教育における教科教育専攻に身を置いているが,教科教育の授業で実現可能である側面は一般に世間で認知される範囲を遙かに超えるものであるということを前提としてみても,授業を中心とする学校教育の中では実現が困難である側面があることを看過することはできない。そもそも教科教育を前提とした授業は成長のすべてをカバーしうるものではない。だとすれば,教科の授業を超える部分に対して,さらに就学前の子どもたちに対して我々はいかなるアプローチが可能であるのだろうか。学校教育を構想し運営する教育委員会や教師たちばかりではなく,国家・自治体さらには地域社会の市民がもっと意識的に教育を支援しなければならないのではあるまいか。国家が責務を負うのはすべての国民に平等な教育機会を提供することであり,学習指導要領に示されるような水準の学力・能力を身につけうる条件を確保することであり,そのことをもって我が国の国民・市民としての最低限の資質を身につけさせる機会を保証することである。子どもの個性のどこを伸長させ,どのような人間として育てるべきかということは学校や国家が決めるべきことではあるまい。それは第一義的には子ども個人の意志によるものでなければならないし,そして次には保護者の教育方針によるものでなければならない。子ども自身あるいは保護者の思い描く社会観・人間観が「公共の福祉」に反しない限りは,学校や国家にそれ以上の方針強要の余地もないし,その権利もないはずである。近年の学校教育現場で,学校側と保護者側の意思疎通の失敗から児童・生徒と担任教師の間に学級運営上の支障が生じていることを耳にすることが多くなっている。以前から言われているような,保護者の高学歴化にともなう教師の社会的地位の低下,学校と家庭の教育的機能分業の崩壊などさまざまな要因があるであろう。こうした問題は可視的に統計的に考察することが難しいばかりではなく,社会的な枠組みからの考察が個性的なひとりの子どもの教育という営みにおいて具体的な指針とならないという事情にも原因はあるだろう。保護者や地域社会と学校との協力関係の構築が今は急務なのである。そして,協力関係の構築のためにもっとも留意されるべきことは,子どもの「望ましい社会観・望ましい人間像」を共有することである。筆者は,家庭の側に無制限の教育方針の自由が許されているとも考えない。学校教育は子どもの学習能力の向上を担うのみでなく,それ以上に子どもの社会化という任務を負っているはずである。その学校の責務を阻害するのは保護者の利己的な主張に過ぎないことを改めて確認しておかなければなるまい。望ましい人間像は,理念的にはいくつもの命題で提示することが可能である。自主性のある子ども,創造的な子ども,個性的な子ども……等々である。これらの諸目標は極めて抽象的であるため,批判的解釈の余地が少なく,そのスローガン自体に異を唱えることは難しい。しかし,理念が正しくともそれが現実の子どもの指導方針を無条件に肯定するものではないこともまた明らかである。理念的な目標はしばしば具体的な場面において価値の対立や矛盾を露呈する。このことは「望ましい社会観・望ましい人間観」のレベルでの共通認識は,現実的な機能不全をもたらしかねないことを物語っている。抽象的な社会観・人間観は,「その実現プロセス」における共通認識の成立をもってはじめて「共有」「協力」が可能になるものであると考える。現在の教育の混乱,教育機関への不信は,社会的に通用するような「望ましい社会観」・「望ましい人間像」が共有できていないばかりでなく,それ以前に,共有の当事者であるところの保護者や教育者たちの中において「望ましさ」が具体的な像を結んでいないからであると思われる。「望ましさ」を明確にイメージ化できるかどうか,それを矛盾なく一個の人格の中に形成していけるかどうか,まさにこの点に子どもの将来,さらには我が国の将来の行く末を左右する要因が内在していると考える。

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