著者
飯島 敏文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 第4部門, 教育科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.1-10, 2014-09

本研究の最終目的は「『郷土教育の現代化』をめざした郷土教育モデルの構築」であり,郷土教育モデルの構築にとって必要な諸ファクターを見いだし,研究テーマをそれらファクターによって焦点化して記述し,それらファクターがいかに機能するかを解明することは研究の一段階である。これまでは主として学校教育における「授業」のレベルで郷土教育を考察してきたが,それ以前の子どもの人間形成空間として「自己」や「家庭」の考察を省くことはできない。本稿においては「家庭」が郷土教育にとってどのような意義を持つのか,また家庭教育が果たす役割は何かを明らかにすることとする。筆者は身近な地域に存在しあるいは生起するあらゆる事物や事象が学習材となり得るという仮説を持っており,さらに日常生活におけるあらゆる経験が教育的意義を持つと考えている。成長期の子どもにとって学習と無縁の経験はないのである。この経験の特定の側面を評価し,サポートするタイミングを見計らうことは家庭や学校における指導者の役割である。本稿では日常生活における2つの局面において,経験の教育的意義を考察した。一つは奈良市界隈の寺社への子どもの興味関心から生じた寺巡りが表現を伴った活動として認知された事例である。この対象は奈良市近郊の児童にとっては地域学習に位置づけられるものであり,小学校中学年の地域史の学習に位置づけられ,小学校高学年以上の子どもたちにとっては日本史学習あるいは日本古代史もしくは考古学の対象となり得るものだからである。学習者の発達段階に応じて必要な相貌を見せてくれる学習材というものは実に貴重である。その対象を学ぶ児童の活動や表現物を分析することによって,身近な地域の歴史を学ぶ際に獲得可能な諸知識と諸能力,諸態度を明らかにすることとしたい。二つ目は子どもが日常生活の中で直面した切実な問題に対応すべく調べ,考え,考察する事例である。教科学習ではなかなか機会を得にくい「いのち」に関わる経験を取り上げた。筆者が研究仮説として考えていることは,学習主体にとって身近な地域から学習材を見いだし身近な地域で学習活動を実現することが,個性的な学びを保証するのみでなく地域的な特殊の学習が個別具体の学習にとどまらず諸領域の学習において普遍的な有効性をもつものであるという見解である。身近な地域にある事象や事物を対象とした学習は直接的かつ具体的であり,現代の子どもが日常的に得ている間接的な経験とは質が異なると筆者は考える。ペーパー上に記述可能な「知識」なるものは間接的な経験のみによって獲得されうるものであろう。その中には多数の事項のみではなく広く知られているような「定型的な論理」すら含まれる。記憶の対象として「論理」が意識されるようになると学習主体にとって価値ある学びは実現されなくなる。社会的な通説を反復記述するだけの人材を育てるだけでは教育の社会的意義も希薄にならざるを得ないであろう。本来は,学習者にとって身近な空間における活動が深化してのち,空間的・時間的に拡大され,対象を観察しあるいは対象を考察し,さらには観察内容・考察内容を言語表現する活動のプロセスの中に多様な教育的契機が存在していると考えている。一般的・普遍的な内容の学習はその発展の過程において実現するものであろう。本稿では,特殊の事例に関わる学習活動において見いだされた教育的諸契機が,より普遍的な教育モデルとして提案可能かどうかを提案するための検証評価をおこなっている。A construction by using only a ruler without scale and a compass is very interesting. There have been a lot of construction problems from ancient Greece era. In 1796, C. F. Gauss discovered how to construct a regular heptadecagon. His idea had joined to the Galois theory. Now, almost books introduce the construction of a regular heptadecagon by using the Galois theory. In this paper, we study how to construct a regular heptadecagon without using the word "Galois theory".
著者
飯島 敏文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第IV部門 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.1-13, 2010-02-26

今年度の「全国学力・学習状況調査」結果がマスメディアを通して公表されたのは本稿提出の直前,8月27日のことである。時間的制約があるため包括的な検証を終えることはできなかったが,上記調査結果の国民に共有される認識については本稿に関わる重要な示唆を得ることができる結果が明らかにされたと考える。 「全国学力・学習状況調査」の目的は,まず「国が全国的な義務教育の機会均等とその水準の維持向上の観点から各地域における児童生徒の学力や学習状況をきめ細かく把握・分析することにより,教育及び教育施策の成果と課題を検証し,その改善を図る」ことであり,各地域にあっては「各教育委員会,学校等が全国的な状況との関係において自らの教育及び教育施策の成果と課題を把握し,その改善を図るとともに,そのような取組を通じて,教育に関する継続的な検証改善サイクルを確立する」ためのものである。それゆえに調査結果は「各学校が各児童生徒の学力や学習状況を把握し,児童生徒への教育指導や学習状 況の改善等に役立てる」ために用いられるべきものである。調査に対して異論がないわけではないが,少なくともこの目的を実現するための調査は必要なものであると筆者は把握している。また,平成20年度の実施状況を踏まえた専門家会議2)でも,調査の実施の改善や調査の主旨の徹底が改めて確認されている。 昨今の社会的風潮は第三者に客観的に了解可能で且つ比較対照がしやすい数量的評価が望ましいものとされ,明確な数値を示すことのできない評価に対して「抽象的」もしくは「包括的」であって具体的示唆を得られないという批判が向けられることが多くなっている。その風潮の中にあって,公表された数値はまさに世間の求める数値であったのかも知れない。しかし,世間に示された数値はその数値のみが取り上げられ,その数値を導くに至った諸要因との関連が考察されるところまでに至ってはいない。 学習の成果を評価すること,そしてそれを数量化したデータとして示すことそのものに筆者は異論をはさむわけではない。しかし,データを利用する(その利用には「解釈」を含む)際に,望ましい扱われ方がなされない場合,データの意味を曲解したり,データから読み取るべき重要な観点や要素がないがしろにされてしまう恐れは常につきまとっている。The suggestion that is the pivot about theme of this report is shown to a "national scholastic ability / learning situation investigation" result announced on August 27 this year. Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology shows an intention of "the national scholastic ability / learning situation investigation" as follows. Purpose of the investigation ○Education and result and the problem of the education measure are inspected from the viewpoint of equality of opportunity of nationwide compulsory education and maintenance improvement of the standard by detailed grasp / analysis of scholastic ability and the learning situation of the child student in each area, and the improvement being planned. ○A continuous inspection improvement cycle about the education being established by each Board of Education and school grasp education and result and the problem of the education measure in relations with the nationwide situation, and a project doing improvement.○Each school grasps scholastic ability and the learning situation of each child student and makes use for the education guidance to a child student or improvement of the learning situation. The investigation enforcement subject is limited to national language and arithmetic / mathematics, but stand by "knowledge" and a question about the side of "the practical application" in they subject, and it is investigation to be intended that is main in analyzing habit and learning environment and Seki relations with the scholastic ability by inventory survey. This paper is written in a situation affirming Clause 1 of the investigation purpose mentioned above. But it is always fraught with danger the event leaves the will of the proposer and enforcement subject like every social phenomenon being so, and to go out alone. Unfortunately "the national scholastic ability / learning situation investigation was no exception, too". "Only numerical value" calculated in investigation attracts interest between the world, and it is done quotation unlike the figure of Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology, and it is the fact that it cannot deny to have invited a result public, to recognize "the order" of the place that Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology denies. It is assumed that the numerical evaluation that the third person can understand is better, and the social trend of these days comes to tend criticism to be turned for the evaluation that cannot show a clear value. In the inside of the wind, the announced numerical value may have been right the numerical value that the world found. However, as for the numerical value shown to the world, only the numerical value is taken up, and connection with the many pivot that came to lead the numerical value does not reach it by a considered place. The pupose in this paper is to try the consideration of the situation by digital and a concept to be analog. The rating system that stood on the premise that there are the many factors that a digital evaluation has difficulty with and the many factors that an analogous evaluation has difficulty with must be developed.
著者
飯島 敏文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第4部門 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.56, no.1, pp.1-13, 2007-09

第2次世界大戦終結後の占領期に形作られた法体系に関しては,戦後の半世紀以上にわたりその是非が議論されてきた。日本国憲法の制定から,社会科という一教科成立のレベルに至るまで,その形成プロセスに対する異論がある一方で,敗戦国としての自制を維持するのに効果的であるという論調も強かった。今般の国会勢力図は長年の懸案であったところの改憲問題,教育基本法改正問題をめぐる状況に変化をもたらし,連立与党の意向によって戦後の法制度を大きく変えることが可能になったのである。改憲手続きに関しては連立与党内でも意見の一致を見ないことから,すぐに実現することはないと思われるが,憲法改正に比して非常にハードルの低い教育基本法改正は,国会審議のプロセスに載せられ,改正が実現する運びとなったのである。2006年に教育基本法改正手続きが現実味を帯びてくると,主として左派勢力から教育基本法改正に対する強い反対意見が表明されるようになった。その主たる反対根拠は戦時下への回帰に対する危惧であり,「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンが教育基本法改正反対論者の旗印となった。一方政府与党内では,日本国内の治安の悪化とりわけ子どもの人格形成に関する危機感や,学力低下に対する危機感も高まっており,与党が国会で圧倒的多数を占めるこの時期の改正に非常に意欲的であると見られたのであった。本稿では,教育基本法の改正を取り上げて考察するものであるが,それはイデオロギーや法的な意味を解釈することに主眼を置くものではない。筆者が専攻している教科教育の授業実践においてさらには学校教育における指導において,旧来の教育基本法と新しい教育基本法の理念が現実にはどのような形で相違を生じさせるのかというレベルでこのたびの事態を考察したいのである。そもそも,子どもたちをどのような人間として育てるかという「善さ」の問題は法律レベルで十分に対応可能なものではないと考える。もっとも重要であるのは,法体系において理念として語られる「善さ」が真に学校現場の教育実践と結びついて機能するかどうかが問題なのである。子どもの成長に影響を与えるのは,教育基本法やその教育基本法の下で運営される学校教育に限定される問題ではない。家庭や地域社会・教師の資質などのレベルのみではなく,教師と家庭がいかに信頼関係を保ちつつ子どもの教育にたずさわることができるのかということによって,教育効果は全く異なるものとなるであろう。学校というストイックな空間と,現代の消費社会はその共存がかなり難しくなってきている。教育基本法の改正によって教育が連動的に改善されると考えている者は稀であろう。教育基本法の趣旨に添ったいかなる教育改革が必要であって,それはいかにして実現可能であるかを考察することなくしては教育基本法の改正は実効性を持たないであろう。改善可能であることと改善困難であることが何であるのか,また全般的な教育機能の回復にとっていかなる措置が追加されなければならないかという課題に関して,あくまで学校教育・教科教育のレベルで建設的な考察を行うことを本稿の目的としたいのである。
著者
飯島 敏文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 4 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.173-185, 2006-02

本稿は,就学前の子どもの日常生活に存する事物あるいは事象の一切を教育的契機として位置づけ,それら教育的資源の有効な活用をはかるための指針と具体的方略及び課題を提起することを目的とするものである。それら教育的資源がいかなる教育的価値を孕んでいるか,さらに教育的価値を発現する上で妨げとなる懸念のある諸要素をいかに把握し,逆にそれらを価値ある諸要素に転換するための手だては存在するという見地から,可能な限り具体的に「日常経験の教育的価値」とその機能の仕方を記述してみたいと考える。筆者はこれまで20世紀初頭おけるドイツのHeimatkunde,昭和初期の郷土教育論及び実践,さらに戦後の地域学習の役割の再評価を通して,子どもの経験という視点から郷土すなわち日常生活空間が内包する教育的価値の解明にアプローチしてきたつもりである。本稿では支障ない範囲で「郷土」を「日常生活空間」と読み替えることで,子どもの日常生活における教育機会を抽出し,その意義と課題を考察してみるつもりである。さて,子どもの日常生活における教育的契機が多数見いだされ,その教育的機能の有効性が期待されるとしても,そしてさらにその有効性が疑いないものであるとしても,教育機会を提供し制御する主体が誰であるのか,またその人的・物質的支援は何人が責務を負うべきであるのかということは,教育の営みの中で常に問い直され続けなければならない課題であると思われる。筆者は学校教育における教科教育専攻に身を置いているが,教科教育の授業で実現可能である側面は一般に世間で認知される範囲を遙かに超えるものであるということを前提としてみても,授業を中心とする学校教育の中では実現が困難である側面があることを看過することはできない。そもそも教科教育を前提とした授業は成長のすべてをカバーしうるものではない。だとすれば,教科の授業を超える部分に対して,さらに就学前の子どもたちに対して我々はいかなるアプローチが可能であるのだろうか。学校教育を構想し運営する教育委員会や教師たちばかりではなく,国家・自治体さらには地域社会の市民がもっと意識的に教育を支援しなければならないのではあるまいか。国家が責務を負うのはすべての国民に平等な教育機会を提供することであり,学習指導要領に示されるような水準の学力・能力を身につけうる条件を確保することであり,そのことをもって我が国の国民・市民としての最低限の資質を身につけさせる機会を保証することである。子どもの個性のどこを伸長させ,どのような人間として育てるべきかということは学校や国家が決めるべきことではあるまい。それは第一義的には子ども個人の意志によるものでなければならないし,そして次には保護者の教育方針によるものでなければならない。子ども自身あるいは保護者の思い描く社会観・人間観が「公共の福祉」に反しない限りは,学校や国家にそれ以上の方針強要の余地もないし,その権利もないはずである。近年の学校教育現場で,学校側と保護者側の意思疎通の失敗から児童・生徒と担任教師の間に学級運営上の支障が生じていることを耳にすることが多くなっている。以前から言われているような,保護者の高学歴化にともなう教師の社会的地位の低下,学校と家庭の教育的機能分業の崩壊などさまざまな要因があるであろう。こうした問題は可視的に統計的に考察することが難しいばかりではなく,社会的な枠組みからの考察が個性的なひとりの子どもの教育という営みにおいて具体的な指針とならないという事情にも原因はあるだろう。保護者や地域社会と学校との協力関係の構築が今は急務なのである。そして,協力関係の構築のためにもっとも留意されるべきことは,子どもの「望ましい社会観・望ましい人間像」を共有することである。筆者は,家庭の側に無制限の教育方針の自由が許されているとも考えない。学校教育は子どもの学習能力の向上を担うのみでなく,それ以上に子どもの社会化という任務を負っているはずである。その学校の責務を阻害するのは保護者の利己的な主張に過ぎないことを改めて確認しておかなければなるまい。望ましい人間像は,理念的にはいくつもの命題で提示することが可能である。自主性のある子ども,創造的な子ども,個性的な子ども……等々である。これらの諸目標は極めて抽象的であるため,批判的解釈の余地が少なく,そのスローガン自体に異を唱えることは難しい。しかし,理念が正しくともそれが現実の子どもの指導方針を無条件に肯定するものではないこともまた明らかである。理念的な目標はしばしば具体的な場面において価値の対立や矛盾を露呈する。このことは「望ましい社会観・望ましい人間観」のレベルでの共通認識は,現実的な機能不全をもたらしかねないことを物語っている。抽象的な社会観・人間観は,「その実現プロセス」における共通認識の成立をもってはじめて「共有」「協力」が可能になるものであると考える。現在の教育の混乱,教育機関への不信は,社会的に通用するような「望ましい社会観」・「望ましい人間像」が共有できていないばかりでなく,それ以前に,共有の当事者であるところの保護者や教育者たちの中において「望ましさ」が具体的な像を結んでいないからであると思われる。「望ましさ」を明確にイメージ化できるかどうか,それを矛盾なく一個の人格の中に形成していけるかどうか,まさにこの点に子どもの将来,さらには我が国の将来の行く末を左右する要因が内在していると考える。
著者
飯島 敏文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第4部門 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.1-14, 2008-02

「学力低下」は今や国民の一大関心事になっている。しかし,もっぱら問題とされているのは学齢期の子どもの学力であって,成人の諸能力についてはほとんどといっていいほど問題にされていない。大学生を含む成人の諸能力はおそらく半世紀前に比べて大幅に欠落している部分が多いはずである。社会的なモラル低下,社会的無関心,あるいはアイデンティティの喪失などに加えて,有名企業や公的機関の失態も目に余る状況である。子どもの学力低下を憂うるのであれば,成人の学力はどうであるのか。これは子どもを対象にした調査ほど明確な数値が出ていないのであるが,子どもの学力調査の対象となっているような分野に関する成人の知識・能力は子どものそれに比べて著しく劣っており,学力の剥離もまた重要な問題であるのである。さらに言えば,20歳を過ぎた成人にとって全く不要な諸能力を子どもに求めることそのものの是非についても検証の必要があるであろう。近々改訂が予定されている学習指導要領に関して中央教育審議会の基本方針が報じられた。本稿執筆時点ではまだ公式発表を見ることができないが,8月17日の読売新聞1)2記事によれば現行学習指導要領の方針を大きく転換し,「確かな学力の向上」を目指す方針に変更されると言うことである。現行学習指導要領が学校週5日制を前提として学習内容の大幅な削減をおこなったのは平成10年のことである。学習指導要領の改訂前の議論で基本方針は国民の知るところとなっていたため,学力低下への危惧が盛んに報じられていた。しかしながら学校週5日制は必然的に授業時数の削減を要求せざるを得ず,改訂は「ゆとり教育」を謳わざるを得なかったというのが現実であろう。学習指導要領の内容削減が行われても直ちにそれが学力低下をもたらすものではないこと,学力とは難しいことをたくさん教え込むことによって向上するものではないことなどを十分に説得できる改訂ではなかったことが問題であったのかも知れない。それ以降,国際学力比較調査において我が国の子どもたちの学力低下が数量的に明示されたことで,子どもの学力低下というイメージが既成事実化し,学力向上を求める意見がさらに高まることとなった。学習指導要領の内容削減が学力低下をもたらすという懸念が,因果関係はともかくとして結果部分において現実のものとなった以上,次の学習指導要領が学力向上に軸足を置いた改訂となることは大方予想されていたことである。本稿は,学習指導要領の難易度が子どもの学力向上と単純な相関関係にあることを否定する立場をとるものである。実際,かつての昭和43年版学習指導要領の改訂によって教育内容が高度化したときにもたらされたのは,学力の向上ではなくして「落ちこぼれ」といわれる子どもたちの多発と教育荒廃の発症という現実であった。昭和52年版学習指導要領によってゆとりが重視されることとなったが,その改訂によって教育の諸問題が解決を見ることはなかった。このことは学習指導要領の基本方針の転回によって無前提的に学力向上や豊かな人間性が実現するものではないことを示す重要な教訓として受け止めるべきではなかろうか。本稿では,学力の向上という教育の課題を重視する立場をとりつつも,学習指導要領の改訂のみではそれが実現困難であることを論じ,子どもたちの学力向上を実現するために他に何が求められるのか。学習指導要領の改訂にあわせて改革されるべき諸問題を明らかにし,学力向上を実現するための効果的な処方を提言しようとするものである。"The decline in academic ability" becomes the big subject of concern of the nation now. However, it is scholastic ability of the children of the school age to be considered to be a problem wholly, and it is not done in many problems about the many ability of the adult. Perhaps I compare the many ability of the adult including the university student half a century ago and largely lack. As well as social morals fall, social indifference or the loss of the identity, a prominent firm and the blunder of the public engine occur frequently. I compare knowledge / the ability of the adult about the field becoming the object of the scholastic ability investigation of the child with it of the child and I am remarkable and am inferior. The detachment of the scholastic ability of the adult is a problem important again. Furthermore, it will need the inspection about the right or wrong of the thing to demand totally unnecessary many ability from a child for the adult who was over 20 years old if it says. The basic policy of the conference of the Central Council of Education was reported about a course of study that revision was planned soon. I switch the policy of the existing course of study greatly, and it is to say that I am going to aim at ""the improvement of positive scholastic ability"", and it is changed. Learning contents are largely reduced by the existing course of study assuming the five-day school week. Through the revision discussion of the course of study, it is a well-known fact that anxiety to the decline in academic ability was proposed. However, the five-day school week needed the reduction of the number of lesson hours, and the course of study could not but appeal to you for ""education at ease"". I did thing that it was not the thing which the contents reduction of the course of study brought decline in academic ability promptly then, and it should have been necessary to prove that it was not the thing which improved by what a difficult thing instilled a lot with the scholastic ability enough. However, I did not make the efforts. Thereafter, decline in academic ability of the children of our country was stated clearly in an international scholastic ability competitive review quantitatively. The image called the decline in academic ability of the Japanese child becomes an established fact, and an opinion in search of scholastic ability improvement will rise more thereby. By this report, the degree of difficulty of the course of study denies the scholastic ability improvement of the child and a thing in a simple correlation. It was reality called the onset of the mass production of ""the dropout"" and the education dilapidation that it was brought by the modernization of past education contents. This is an important lesson to show that the revision of the course of study that attached great importance to scholastic ability does not bring scholastic ability improvement for no premise. I discuss that scholastic ability improvement has difficulty with realization only by an action of the revision of the course of study and the nature improvement of the teacher and, by this report, clarify a thing becoming basic of the scholastic ability improvement. I decide to investigate feasibility of the scholastic ability improvement through necessary thing and considering the many problems that I can put it together in the revision of the course of study, and should be reformed to realize scholastic ability improvement of children thereby.